分付主 | 分付百姓 | 筆数 | 面積 | ||
孫兵衛 | 庄右衛門 | 30 | 12 | ||
七郎右衛門 | 半三郎 | 39 | 21 | ||
七郎右衛門 | 金十郎 | 21 | 12 | ||
茂右衛門 | 次郎右衛門 | 13 | 3 | ||
茂右衛門 | 次郎左衛門 | 1 | 21 | ||
茂兵衛 | 次郎右衛門 | 1 | 12 | ||
次兵衛 | 長三郎 | 1 | 18 |
大谷村の文禄四年(一五九五)検地帳には、分付記載が見られる(史料編Ⅱ・一三二頁)。
同(祭田) 若色分宮下
中田 一反一畝 八斗二升五合 弥左衛門
同 同
下々田 二反五畝五歩 二斗五升二合 四郎右衛門
大ツほ 糟谷分中町
下々田 三反二十歩 三斗六合 清五郎
「若色」が分付主で、「弥左衛門」が分付百姓である。分付関係の場合、分付百姓は土地に課せられる年貢や諸役は分付主を通して納めた。分家が成立するか、または隷属農民が本百姓化すると分付関係は解消すると考えられる。なお、分付主の糟屋善七郎と若色助八郎の名前は、分付記載以外にはこの文禄検地帳には見当たらない。
文禄四年から六十一年後の明暦二年(一六五六)の検地帳では、分付記載が百六筆と大幅に増えている。面積も六町二反六畝九歩と増えた。村の全耕地面積の百九十一町八反七畝二十二歩の三パーセントとなる。割合は文禄四年と同じであった。
14表「大谷村 明暦二年 分付一覧」によれば、分付記載一位の孫兵衛分庄右衛門は、三十筆で二町一反六畝十二歩である。孫兵衛は大谷村で最大の土地十六町六反六畝二十五歩の所持者であった。屋敷地も三反一畝二十一歩と村内でも広い方であった。分付百姓の庄右衛門は六番目に広い九町九反三歩である。屋敷地も三反二畝九歩とある。庄右衛門自身が孫兵衛に迫る経営をしていた。二人の間には支配関係より提携関係があったと思われる。彼らは、家族か親族であったと推定する。
分付記載二位の分付主の七郎右衛門と分付百姓の半三郎も三十九筆、一町六反三畝二十一歩と多い。分付主の七郎右衛門は、四町一反六歩と屋敷地一反四畝九歩を持っている。分付百姓の半三郎も、二町九反二畝十八歩と屋敷地一反一畝九歩を持っている。この半三郎の屋敷地一反一畝九歩の中の四畝六歩は、分付主の七郎右衛門と連名記載である。
また、分付主の七郎右衛門と分付百姓の金十郎も二十一筆、一町一反九畝十二歩もある。金十郎も一町四反歩と屋敷地八畝二十七歩が記載されている。この屋敷地全てが分付主の七郎右衛門と並記記載である。
分付主の七郎右衛門と分付百姓の半三郎・金十郎は、家族関係にあったかのか、それとも、分付百姓の半三郎と金十郎は、小農として、分付主の七郎右衛門から自立しようとしていたのか判断はできない。
分付主の茂右衛門と分付百姓の次郎右衛門では、茂右衛門は二町五反九畝十五歩、次郎右衛門は一町九反六畝二十一歩であるが、二人には屋敷地がない。しかし、分付主茂右衛門と分付百姓次郎左衛門では、次郎左衛門は、分付主より広い三町二反六畝歩と屋敷地六畝九歩がある。
これに、茂兵衛分次郎右衛門を加えて考えると、茂兵衛は五町三反八畝四歩と屋敷地五筆、二反二畝九歩ある。戸主が茂兵衛で、彼らは、茂兵衛を頂点にした複合家族であった、または、一族であったと推察する。このように、分付百姓も分付主の下で耕作地を増やして経済的自立を目指していたと思われる。