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寺渡戸村の十八家

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 寺渡戸村には多くの検地帳が残されている。文禄四年(一五九五)の検地帳(史料編Ⅱ・一九一頁)には、村の全面積十町三畝二十歩の五十六パーセントに当たる五町六反一畝二十九歩が記載されていた。それらは丹波と丹波分付主のものであった。
 元和六年(一六二〇)の検地帳(史料編Ⅱ・一九三頁)には、十一町三反五畝歩分が記載されている。分付記載はない。又兵衛が四十一筆、五町一反一畝、新左衛門が二十八筆、一町九反九畝、源右衛門が二十二筆、一町六反六畝、喜助が十六筆、一町三反七畝、弥七郎が十八筆、一町二反六畝、新四郎が一筆、一畝である。
 又兵衛・新左衛門・源右衛門・喜助の四人は屋敷地持ちである。しかし、弥七郎と新四郎は屋敷地なしである。弥七郎は一町二反六畝歩も保有していたのに屋敷地なしであった。
 明暦二年(一六五六)の検地帳(史料編Ⅱ・一九八頁)から、15表「明暦二年寺渡戸村面積と持高一覧」を作成した。その中で土地保有最大が孫助の四町八反一畝歩、二十六石四斗六升七合である。二位が孫兵衛の三町七反七畝歩、十八石二斗七升八合である。孫兵衛の自作地は二反九畝歩、一石八斗一升五合分しかない。面積で九十二パーセント、石高で九十パーセントが、分付主の孫助分であった。三位の又左衛門は、二町七反歩、十三石四斗八升六合のすべてが、分付主としての孫助分であった。孫助は、最少石高・善右衛門の分付主でもあった。
 孫助は、分付百姓の又左衛門と善右衛門の耕作地の全てを保有していた。また、分付百姓の孫兵衛の大部分を保有している。これらを合わせると、面積で十一町六反六畝歩、石高で五十六石五斗一升六合が、孫助の保有となる。孫助と孫兵衛は家族と思われる。
 明暦二年の寺渡戸村の面積は、三十八町二反四畝九歩、石高で百七十七石七斗四升四合五勺であったから、孫助は、面積で三十パーセント、石高で三十二パーセントを保有していた。
 八位の惣右衛門も分付主として、四位の惣左衛門と九位の長作、十九位の久兵衛、二十位の新左衛門を分付百姓としていた。惣左衛門と長作、新左衛門の全部と久兵衛の大部分を保有していた。分付主の惣右衛門よりも、分付百姓の惣左衛門の方が面積が広い。惣右衛門と惣左衛門も家族関係にあったと思われる。惣右衛門も、面積で七町九反四畝歩、石高で三十四石六斗一合を保有した。孫助に次いで経営規模が大きかった。
 16表「明暦二年寺渡戸村 分付主・分付百姓面積・石高一覧」のように、明暦二年の寺渡戸村の二十三人の内、孫助・惣右衛門・源右衛門・与左衛門・清左衛門・与作・長七の七人が分付主兼分付百姓である。十五人が分付百姓である。その十五人の内、又左衛門・善右衛門・惣左衛門・長作・新左衛門・長左衛・庄三郎・久七・助右衛門・彦三の十人は、その全てが分付百姓分であった。
 これらの分付主と分付百姓が家族関係にあったのか、隷属関係にあったのかは、推定できない。
 寛文八年(一六六八)奥平昌能が山形に転封し、山形より松平(奥平)忠弘が入って来た。その忠弘が行った寛文十一年の新田畑検地帳(史料編Ⅱ・二〇二頁)が寺渡戸村にある。この検地帳で新しく二町九反六畝十五歩が打ち出された。
 孫右衛門が四反九畝二十四歩で最大である(17表「寺渡戸村 寛文十一年検地帳土地面積一覧)。孫右衛門は七郎右衛門と伝右衛門の分付主としても記載されている。その伝右衛門も与五右衛門の分付主である。孫右衛門・七郎右衛門・伝右衛門・与五右衛門の四人を合わせると、新田は三十四筆、一町一反四畝一歩である。これらは新田の三割にあたる。
 孫右衛門の他にも、分付記載は多く見られる。源右衛門分源左衛門・次左衛門、次兵衛分惣左衛門、与左衛門分小左衛門、清兵衛分善兵衛・惣右衛門、勘之丞分利右衛門の五グループである。分付記載が見られなかったのは、六右衛門・一郎右衛門・清右衛門の三名である。このように、新田の分付主は、村の中でも上層農民であったと考えられる。
 江戸時代後期の寺渡戸村の絵図(寺渡戸 山本三好家文書)に十八家がかかれている。明暦二年や寛文十一年の検地帳に出てくる家数とほぼ同じである。村の人によれば、昭和の始めまで、村の戸数と家の位置は、村の絵図と変わらないという。現在、「孫兵衛」の名を刻んだ墓石が二基、村の中にある墓地の片隅に現存している。
 
15表 寺渡戸村明暦2年 面積・持高一覧
NO名前上田中田下田下々田上畑中畑下畑下々畑屋敷合計
1孫助95241418572441122015324481518861164812426.467
2孫兵衛3813202723186881121212818110620213771218.278
3又左衛門463527262142989311810412532701213.486
4惣左衛門2927102428276785121405287811.916
5長左衛門1333115321637211615153182842411.887
6清左衛門29271624143201812211391071866221610.987
7源右衛門2335951233310187327618188310.315
8惣右衛門19159183818262122188618621210910.15
9長作932227234924302484126922699.999
10与左衛門1418346935219242615672416195279.847
11金七152127372417187361412696194249.423
12勘十郎19122365369189315632057.915
13惣三郎193192128661214686393183247.524
14助右衛門11113213567272412299119185.625
15与作72024231289159162726945.437
16長七126610188121119152.52
17彦三1712732431294181.867
18庄三郎14901514241.588
19久兵衛291233151564271.524
20新左衛門1391391.13
21円良4214210.329
22久七63630.183
23善右衛門6186180.099

明暦2年 下野国宇都宮領塩谷郡寺渡戸村御縄帳(寺渡戸区有文書)より作成
 
16表 寺渡戸村明暦2年分付主・分付百姓面積・石高一覧
分付主分付百姓上田中田下田下々田上畑中畑下畑下々畑屋敷合計
孫助孫兵衛381320272318686112121272311063471616.463
又左衛門463527262142989311810412532701213.486
善右衛門6186180.099
惣右衛門惣左衛門2927102428276785121405287811.916
長作932227234924302484126922699.999
久兵衛291225182571.406
新左衛門1391391.13
源右衛門長左衛門131311532123721615153182842411.887
勘十郎191223653691891663202217.881
与左衛門惣三郎1931921286612101574219177187.176
庄三郎14901514241.588
清左衛門金七1521273724171873614126127157188.417
久七63630.183
与作助右衛門111130213567272412299119185.625
長七彦三1712732431294181.867

明暦2年 下野国宇都宮領塩谷郡寺渡戸村御縄帳(寺渡戸区有文書)より作成
 
17表 寺渡戸村寛文11年新田畑検地帳 土地面積一覧
 
NO名前田畑屋敷地
筆数分付主筆数分付主
名前筆数名前筆数
1孫右衛門114924479
2源左衛門103224源右衛門41818
3次左衛門42915源右衛門323
4七郎右衛門102827孫右衛門31012
5惣左衛門7266次兵衛12次兵衛12
6源右衛門82512
7小左衛門72124与左衛門72124
8与五右衛門51824伝右衛門2818
9伝右衛門81615孫右衛門1024
10清兵衛7133
11与左衛門412181127
12勘之丞41015113
13善兵衛4821清兵衛269
14六右衛門2715
15利右衛門263勘之丞263勘之丞1518
16一郎右衛門2221
17次兵衛1212
18清右衛門1212
19惣右衛門3121清兵衛2118清兵衛1024

寛文11年 下野国宇都宮領塩谷郡寺渡戸村新田畑御縄帳(寺渡戸区有文書)より作成

10図 寺渡戸村の18戸の農家(寺渡戸 山本三好家文書)


11図 孫兵衛の墓がある墓地(寺渡戸地内)