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宝積寺村の農民たち

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18表 宝積寺村の百姓数の変化
寛延2年(1749)安永2年(1774)慶応元年(1865)
家数146軒148軒91軒
本百姓52軒52軒51軒
合地33軒41軒20軒
水呑10軒10軒
前地11軒3軒
隠居38軒40軒20軒
寺・他4軒2軒
人数658人590人449人
386人324人232人
268人261人217人
僧・他4人5人

(史料編Ⅱ・54・61・87頁)より作成
 
 江戸時代の農村には、いろいろな階層の農民がいた。村人の中心は、検地帳に登録された本百姓(高持)であるという。
 寛延二年(一七四九)の宝積寺村指出帳(史料編Ⅱ・五四頁)に「一 堂七ヵ所 百姓地内ニ御座候、観音堂 一ヵ所 支配人長百姓 勘右衛門、十王堂 一ヵ所 支配人小前 加右衛門」とある。
 長百姓とは、農村で有力な百姓の総称で、村役人や組頭を指す場合もあった。草分けともいい、村内でも持ち高が多く、村の創設以来の旧家を指すこともある。天明三年(一七八三)の関俣村差出明細帳(史料編Ⅱ・三四頁)では、「一 家数之事 家数合八拾軒内 弐拾六軒 頭百姓」とある。頭百姓も長百姓と同じと思われる。研究史上彼らを「初期本百姓」ともいう。
 長百姓に対して、小前とは、小前百姓といい、小百姓のことをいう。彼らも、村内に田畑屋敷を所持し年貢を負担した。「初期本百姓」に対して、彼らを「近世本百姓」ともいった。長百姓も小前も、田畑と屋敷を持ち、年貢・諸役を務め、村政に参加する本百姓である。
 一方、田畑を持たず、地主の下で小作を営んだり、日傭仕事に従事する水呑(無高)や、有力な本百姓と隷属関係にある名子・前地・譜代下人などもいた。
 寛延二年の宝積寺村指出帳には、「百姓家数百四拾六軒、内 五拾弐軒 本百姓、三拾三軒 合地、拾軒 水呑、拾壱軒 前地、三拾八軒 隠居、寺弐ヶ寺、外ニ庵 四軒」とある。五十二軒の本百姓の外に、合地・水呑・前地・隠居・寺の百姓や僧がいた。
 三十三軒の合地と似た表記が、天明三年の関俣村差出明細帳に、「一 家数之事 家数合八拾軒内 三拾弐軒 分地百姓」とある。寛政十二年(一八〇〇)の桑窪村宗門帳(史料編Ⅱ・三四九頁)にも、「一 同寺旦那 同人分地 平右衛門 当申七十二才」とある。小学館『日本国語大事典』によれば、「分地」は「わけち、ぶんち」と読み、「土地を分けて子弟などに与えること。また、そのわけた土地」とある。また、「相地」は、「徳川幕府の分地制限令により、農家の持ち地を一町歩(高十石)以下に減反することができなくなってからの非合法な分地。名義上は父のものとなっている一筆の田を兄と弟に分与する場合、父はその田に適宜に境界を設けて兄弟に農作させることをいう」とある。
 十軒の水呑は、水呑百姓をいい、水だけ飲んで暮らしたほどの貧しさから、あるいは飲み水の利用だけ許されたから、この名がついたといわれている。隷属的農民が無高で自立したり、本百姓が没落したりして生まれた。年貢や村入用の負担はないが、原則として山野・用水の管理や村寄合に参加できなかったいう。
 十一軒の前地は、譜代の下人が高持ちの本百姓の土地を分譲または貸与してもらい耕作した。年貢・諸役は主家が勤めた。家抱と同じ隷属農民であるという。三十八軒の隠居は、家督をゆずった人をいう。
 これらの宝積寺村の農民階層の変化を、寛延二年の指出帳と安永三年(一七七四)の指出帳(史料編Ⅱ・六一頁)、慶応元年(一八六五)の指出帳(史料編Ⅱ・八七頁)によって、表にしたものが、18表「宝積寺村の百姓数の変化」である。
 宝積寺村の人数は、六百五十八人、五百九十人、四百四十九人と減少している。しかし、本百姓数は五十二軒・五十二軒・五十一軒と、大きな変化はない。年貢や諸役を負担する本百姓数を維持しようとしたことが読みとれる。
 合地は、安永三年に増加したが、幕末の慶応元年に大きく減少している。前地も、安永三年に三軒と大幅に減少している。慶応元年には水呑も前地も村明細帳上から姿を消している。
 延享四年(一七四七)の「欠落・出奔の者につき廻状」(史料編Ⅱ・六五二頁)に「一 欠落帳面外 下高根沢村庄屋平兵衛前地 三吉」や「一 同断 上高根沢村権右衛門組水呑 六兵衛・女子とよ」とあるように、前地や水呑の者も欠落・出奔により、戸籍であった宗門人別帳から除かれた。これらは、合地や前地などの下層農民が、困窮化し、欠落ち、すなわち村から立ち退いたためと思われる。

12図 寛延2年の宝積寺村指出帳(宝積寺 加藤俊一家文書)


13図 「寛延2年宝積寺村指出帳」

「五拾弐軒本百姓、三拾三軒合地、拾軒水呑、拾壱軒前地、三拾八軒隠居、寺弐ケ寺外ニ庵四軒」とある。