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亀次郎の前地

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14図 旧名主 鈴木重良家

 元禄十四年(一七〇一)の郷帳によれば、亀梨村の村高は二百四十石九斗八升一合であった。延享四年(一七四七)の村指出帳では、村は鈴木七郎右衛門組の七十五石余と鈴木伝兵衛組の百七十二石余に分かれ、二人の庄屋が村を二分して治めていた。
 享保十八年(一七三三)の亀梨村の七郎右衛門組五人組帳(史料編Ⅱ・三〇九頁)に、庄屋亀次郎の家族が載っている。
 享保十八年三月に七郎右衛門が病死した(史料編Ⅱ・三一五頁)。そこで弟亀次郎が六歳で家督と庄屋職を継いだと思われる。家族は四十九歳の母と二人である。奉公人は、下男・二十二歳の藤八と三十一歳の平内、五十八歳の手代・善右衛門の男三人と、下女が二十九歳のはつ、二十七歳のなつ、十七歳のさんの三人であった。五人組帳や宗門改帳には、娘の名前は表記されているが、妻や母、祖母は表記されていない場合が多い。
 亀次郎の母が家を取り仕切り、手代の善右衛門に農作業を任せ、庄屋を経営していたのだろうか。十一年後の延享元年(一七四四)の五人組帳(史料編Ⅱ・三一九頁)には、伯父・七郎左衛門・六十一歳とその妻・五十歳が記載されている。享保十八年の七郎右衛門の死後、伯父の七郎左衛門が、六歳の亀次郎の後見人として活躍した可能性が考えられる。
 亀次郎家には、馬が二匹もいた。また、家も縦十一間に横十七間、建坪百八十七坪、三間半×六間、建坪二十一坪、二間×六間、建坪十二坪の三棟の居家を持っていた。この外にも、土蔵として二間×六間、建坪十二坪、二間×四間、建坪八坪、古酒蔵四間×九間、建坪三十六坪があった。しかし、「焼失後右ニ住居仕り候(そうろう)」とあるので、建坪百八十七坪の居家が焼け、土蔵の二間×四間、建坪八坪で生活していたと思われる。屋敷地は、横四十間、縦四十五間の千八百坪、六反である。また、七か所の地付林を所有していた(史料編Ⅱ・三〇九頁)。亀梨村の庄屋亀次郎家の大きさがわかると思う。
 この時、村には「屋敷〆拾五軒 内 壱軒 亀次郎、拾四軒 同人前地、壱軒 妙福寺 地付山〆七ヶ所」(史料編Ⅱ・三一四頁)とある。亀梨村の七郎右衛門組は、一軒の本百姓と十四軒の前地で成り立っていた。
 19表「亀梨村享保十八年名主亀次郎の前地一覧」に示したように、十四軒の前地の一つ、吉兵衛は、七人家族であった。五十七歳の吉兵衛、五十四歳の妻、三十七歳の養子紋兵衛、三十六歳の紋兵衛妻、十七歳の紋兵衛の子・太郎、十三歳の同人の子・なつ、二十八歳の吉兵衛の甥・加兵衛である。吉兵衛には、馬が一匹いた。前地のうち吉兵衛・文左衛門・喜平次の三軒は馬を所有していた。吉兵衛の家屋は、縦二間半、横六間の建坪十五坪、屋敷地は、横八間×縦十六間の百二十八坪である。
 善左衛門(妻と二人)と八郎右衛門(母と二人)、弥兵衛(一人)の三家族も三坪の家屋に住んでいた。前地の住居の小ささは想像しにくい。なお、前地の屋敷地は百二十八坪(二軒)か九十六坪(十二軒)で画一的である。
 十四家の全てが亀次郎の前地であった。前地は、亀次郎に隷属していたが、六十八年後の享和元年(一八〇一)の「他村への出奉公人取調帳」(史料編Ⅱ・六六三頁)によると、亀梨村の前地の者が烏山や関俣村に年季奉公に行き、給金を稼いでいた。彼らは隷属から経済的解放を目指していたのである。
 
19表 亀梨村享保18年 名主亀次郎の前地一覧
名前家族数男数女数屋敷坪数 坪家屋坪数 坪馬数 匹
1吉兵衛743128151
2惣兵衛532965
3甚右衛門7439616.5
4甚四郎33966
5善兵衛422963
6文左衛門52312812.51
7六右衛門3219612.5
8善左衛門211963
9八右衛門422965
10八郎右衛門211963
11五右衛門4139612.5
12弥兵衛11963
13喜平次75296151
14平内3 2 1 96 7.5
合計5733241408119.53
1戸当たり4.02.41.7100.68.50.2

(史料編Ⅱ・310~314頁)より作成