ビューア該当ページ

村役人の仕事

586 ~ 589 / 899ページ
 江戸時代、日本には六万余の村があったと言う。村の運営は、名主・庄屋(肝煎ともいう)や組頭・百姓代からなる村役人(村方三役)を中心とする本百姓によって進められた。
 元和元年(一六一九)、本多正純宇都宮藩の長谷川左近から出された大谷村の年貢割付状(史料編Ⅱ・二二二頁)は、「肝煎・百姓中」宛であった。寛文二年(一六六二)に奥平忠昌宇都宮藩の滝川喜左衛門・奥平忠左衛門などから出された平田村の年貢割付状(史料編Ⅱ・二四三頁)では、「肝煎・百姓」宛であった。しかし、寛文十一年(一六七一)に松平忠弘宇都宮藩の大根田七右衛門・駒田小左衛門などから出された平田村の年貢割付状(史料編Ⅱ・二四四頁)は「庄屋・惣百姓」宛であった。また、元禄四年(一六九一)に奥平昌章宇都宮藩の坪坂理右衛門・山崎半蔵などから出された同村の年貢割付状(史料編Ⅱ・二四六頁)は、「肝煎・惣百姓」宛であった。
 このように、同じ宇都宮領の高根沢地内であっても、時期によって、藩主によって、肝煎や庄屋の名称を使っていた。
 慶応元年(一八六五)の宝積寺村明細書上帳(史料編Ⅱ・八六頁)に、「一 村方先々より郷例ニテ、御役は勿論都テ 庄屋・組頭・惣代並びに頭百姓一同相談の上、万事取り計らい候義ニ御座候、尤も大参会として正月二十日村方一同役元へ相集まり、取り極め置き候義ニ御座候」とある。村内のことは、庄屋・組頭・惣代の村方三役を中心に、大事なことは頭百姓を加えて決めていた。なお惣代は百姓代とほぼ同じである。
 名主・庄屋の仕事は村方の全般に関する事務であったという。庄屋の仕事を村明細帳から見ていく。
 寛延二年(一七四九)の上高根沢村差出明細帳(史料編Ⅱ・二一頁)に「一 御高札場 二ヶ所、切支丹札 二枚、火付け札 二枚、鉄砲札 二枚、右御高札場 名主共地内ニ取り置き申し候」とある。高札とは禁令や法令などを板札に墨書きして、庶民に周知するように掲示したもので、人目につきやすい町辻や橋詰、村役人宅の門前などの高札場に掲げられ、厳重に管理されていた。上高根沢村では、阿久津半之助と宇津権右衛門の二名の名主がいたので、二名の屋敷にそれぞれ高札場があった。
 慶応元年(一八六五)の宝積寺村には、四つの高札が掲げられていた。「切支丹御法度」、「鉄砲御法度」、「火之元用心」、「逃散・徒党御法度」の四つである(史料編Ⅱ・八二頁)。
 天明三年(一七八三)の関俣村差出明細帳には、「一 御名寄帳 御水帳の通りいずれも御座候、但し、御水帳・名寄帳共ニ前々より庄屋預かり置き申し候」(史料編Ⅱ・二九頁)とある。土地台帳である水帳と年貢や村入用費を徴収するときに使う名寄帳は、庄屋宅にあった。そのほか、庄屋にとって、年貢の納入、戸籍事務(宗門改帳の作成)、道橋の普請、村人の願書・契約書などの奥書などが重要な任務であった。庄屋は今の役場にあたる仕事をしていた。村内の全ての公の仕事をしていたことになる。
 名主・庄屋に対しては、領主がその村高に応じて給米を与えたり、村高のうちの一定限度分の年貢や諸役を免除したりした例が多い。
 寛延二年(一七四九)の上高根沢村差出明細帳(史料編Ⅱ・二三頁)に、名主給について、「高四百三十三石五斗九升六合六勺の四石役高の内、高十四石六斗九升六合は名主役米として、すなわち名主の半之助の給分として、御代々御免下され候、名主両人の持高にかかる諸役の掛かり物の分は、村中ニテ古来ヨリ相勤め来り候」、また組頭給として、「半高(持ち高の半分)の諸役の掛かり物は村中ニテ相勤め来り候」とある。名主給として、領主から四石役分の高十四石六斗九升六合と名主の持ち高に掛かる諸役と掛かり物が村人の負担となった。組頭には組頭給があった。組頭給も村人の負担となっていた。
 天明三年(一七八三)の関俣村差出明細帳(史料編Ⅱ・三〇頁)にも、「一 先規ヨリ仕り来たり候籾一件之事、(中略)籾一石二斗六升八合 此の籾ノ儀は四石役籾納め残り、前々より庄屋給ニ年々下し置かれ候」とある。関俣村でも、籾一石二斗六升八合が庄屋給として支給されていた。
 慶応元年(一八六五)の宝積寺村明細書上帳(史料編Ⅱ・八五頁)には、「一 庄屋給米六斗七升、御上様ヨリ下し置かれ、年々御年貢米の内ニテ差し引き遊ばされ候、一 庄屋・組頭・惣代の付け人給米として、六斗村方ヨリ請け取り申し候、尤も右米ハ軒割りニテ取立て申し候」とある。名主給六斗七升は領主より、庄屋・組頭・惣代の付け人給六斗は、村人から支給されている。
 名主・組頭・惣代の村方三役の仕事に対する報酬が、領主からだけでなく、村人からも出されていた。ここに、自分の村のことは自分たちで負担する自治的な面と、支配側である領主が経済的な負担を少しでも少なくしようとする政策的な意図が見られる。

15図 火の用心の高札(上高根沢 阿久津昌彦家蔵)