明和二年(一七六五)の「大谷村歴代庄屋覚」(史料編Ⅱ・三七八頁)によると、「元禄十年(一六九七)までは弥右衛門が代々勤めていた。元禄十年から瀬兵衛、元禄十三年から半兵衛、宝永五年(一七〇八)から四斗蒔の弥次右衛門と弥藤次が代々勤めた。宝暦七年(一七五七)から三年間は桜野村の五郎右衛門が兼帯した。その後の八年間を八郎右衛門・三郎左衛門・六郎右衛門・半兵衛が年番で勤めた。明和二年(一七六五)から八郎右衛門が名主定役となった」とある。
江戸時代の初期や前半は一家が代々名主を世襲する例が多かったが、中期以降になると村内の経済的地位の変動によって、一代交代とか、一年交代の年番に変わった村もあった。
大谷村でも弥右衛門が元禄期まで世襲してきたが、元禄十年から瀬兵衛、元禄十三年から半兵衛に代わっている。『大谷村の歩み』(大谷公民館、一九六二年 一五頁)によると、「弥右衛門が二十七才で病死し、子の孫太郎が成長するまで、弥右衛門の弟・瀬兵衛が名主を継いだ」とある。
また、宝暦七年から桜野村の五郎右衛門が名主を兼帯した。下野国は十八世紀後半の宝暦期頃から農村の荒廃が顕著になる。それが人口の減少となって表れている(『ふるさと栃木県の歩み』二四九頁)。大谷村の農民が名主職を引き受けられなくなり、隣村の五郎右衛門が名主を勤めたと思われる。
また、幕末の慶応四年、亀梨村の伝兵衛組は、「一 当村の儀ハ、本名主相定まり申さず候ニ付き、当分の内廻り組頭持ちニテ相勤め申し候間」(史料編Ⅱ・四六頁)と、名主が不在で組頭が勤めていた、とある。このように自分の村から名主を出せない時があった。
元文四年(一七三九)の中柏崎村名主清次右衛門と組頭亦七から領主に、「権助、与左衛門、多左衛門、重左衛門、平七、半左衛門、平助の七人が飢え苦しんでいる。ご慈悲をもって夫食(食料か食費)を支給してくだされば、ありがたいです」(史料編Ⅱ・六四九頁)と飢饉による村民の困窮を訴え、夫食願いを出している。
このように、村の困窮のために、村の代表者である名主は、年貢納入のために金の工面をすることも重要な仕事の一つとなった。
16図 大谷村の歩み(大谷公民館 平成8年発行)