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上高根沢村の名主

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 高根沢地域の村二十一か村で最大は、上高根沢村の千四百三十二石五斗八升五合二勺であった(天保五年下野国郷帳・史料編Ⅱ・三頁)。上高根沢村は、寛延二年(一七四九)に三百八十一町五反歩の田畑があった。その内、田が百七十町六反歩と四割以上を占めていた。家数は二百三十七軒、人数は千二百五十一人と大きな村であった。そこで、名主が二名いた。半之助と権右衛門であった(史料編Ⅱ・一四頁)。
 貞享四年(一六八七)に権右衛門組(上組)と半之助組(下組)に分かれていた。半之助の阿久津家は低利の祠堂銭を基金として一橋家に御用金を調達したり、佐倉領・烏山領・喜連川領の農民の年貢先納を請負ったりした。阿久津家は御目見・五人扶持・苗字帯刀の士分になっていたという(『角川日本地名大辞典9栃木県』・一二〇〇頁)。
 権右衛門の宇津家は、家伝薬救命丸を各地に販売した。また、一橋家の御年貢米金取立役も勤めていた。宇津家も天保四年(一八三三)永代苗字帯刀御免となり、天保九年から八人扶持を与えられた(史料編Ⅱ・七九一頁)。
 江戸時代の後半と思われる「上高根沢村絵図」(上高根沢 高瀬晴基家文書)に三十二の地域名が表示されている。半之助組は、「村居分有之所小名半之助組」として、二十六の小名が黄色で表示されている。権右衛門組は十二の小名が赤色で表示されている。両組の支配する小名は次のとおりである。
 
  半之助組  石沼 迎戸・庄ヤ元 原ノ内 堀内宿 川中郷 寺林 五本木 大龍内 (沢)(般若塚)(河原田) 水口 吹上 立野 大あみ 川畑 京塚 古屋敷 (上原)(西原) 金井神 (木五郎内) 一斗内 二ツ橋 田中 はと内
  権右衛門組 (般若塚)廻り谷 咲内 屋なぜ 芝野(河原田)(木五郎内)(沢)(西原)(上原) 関口 中ノ内・庄ヤ元
 
 その中で、(沢)(般若塚)(河原田)(上原)(西原)(木五郎内)の六つの小名は、半之助と権右衛門の両組で二分されていた。上高根沢村内に両組の支配する小名・地域名は散在している。なお、半之助の屋敷は迎戸に、権右衛門の屋敷は中ノ内付近、現在の西根にあった。