五人組 八五郎
次郎
五左衛門
吉兵衛
源右衛門
次も五人であるが、その次は六人である。続いて、五人、六人である。その次が
五人組 三郎左衛門
藤七
三左衛門
長八
長兵衛
金右衛門
六助
の七人である。五人が四組あって、計五十四人の名がある。
このような五人組を、江戸幕府が幕領内で始めた時期は元和元年(一六一五)か寛永初年(一六二四)で、譜代大名領で実施されたのは寛永十年代であるといわれている(吉川弘文館『園史大辞典第五巻』九三六頁)。
江戸幕府が成立し、組織も整いつつあった慶長・元和・寛永期には、小農民自立策による農民の耕作への意欲や農業技術の発達、用水の開削・新田の開発などによって、農業の生産性が向上したといわれている。その生産性の向上に合わせて、領主は農民から生産の余剰部分をできる限り収奪しようと年貢の増徴をはかった。
しかし、農民の再生産部分まで食い込んだ年貢の増大は、農民の疲弊となってあらわれた。寛永十年代から始まった凶作・飢饉の連続は、寛永十九年(一六四二)の諸国の飢饉につながった。宇都宮藩でも大凶作となり餓死者が多数出た(『栃木県歴史年表』二四頁)。
このため、幕府は寛永二十年(一六四三)に田畑永代売買禁止令を出して本百姓経営の独立と維持をはかろうとした。また、「土民仕置覚」(『御触書寛保集成』一三一〇号)十七か条を出した。これは、農民に節約を強要し、生産力を高めて年貢の増徴をはかることをねらいとした。
①庄屋・惣百姓共に、今後、その身に応じない家を作ってはいけない。(後略)
②百姓の衣類は、以前より御法度のように、庄屋は妻子とも絹・紬・布・木綿、脇百姓は布・木綿ばかりを着ること。この外は衿・帯などに使ってはいけない。
③庄屋、惣百姓共に、衣類は紫・紅梅色に染めてはいけない。この他は何色に染めてもよい。しかし、模様なしに染めて着る。
④百姓の食物は常々雑穀を用いる。米はみだりに食べないように言い聞かせなさい。
⑤村々では、うどん・切り麦・そうめん・そば・まんじゅう・豆腐などは、五穀のむだになるので、商売してはいけない。
⑥村々では、酒を全く造ってはいけない。また、外より仕入れて商売してもいけない。
⑦市・町へ出て、訳もなく酒を飲んではいけない。
⑧耕作している田・畑共に手入れよくし、草も油断なく取り、念を入れなさい。もし、念を入れない不届きな百姓がいたら、調べて罰を言い渡す。
⑨独り身の百姓が病気で耕作できない時は、五人組は言うまでもなく、その村で、相互に助け合って、田畑仕事をし、年貢が納められるようにしなさい。
⑩五穀のむだになるので、たばこは今年より、本田畑でも新田畑でも作ってはいけない。
⑪名主・惣百姓、男女共に乗物(かご)は禁止。
⑫他所より来て、田地を作らず、身元が確かでない者は、村内に置いてはいけない。(後略)
⑬田畑永代の売買はしてはいけない。
⑭百姓が年貢訴訟で出かけて来たり、欠(駈)け落ちした者に宿を貸してはいけない。(後略)
⑮地頭・代官の処置が悪く、百姓が堪え忍ぶことができないときは、年貢を皆済して近くの村に移り住んでもよい。未納がなければ、地頭・代官はそれらの百姓を処罰してはいけない。
⑯仏事や祭礼などまで、自分の身に合わない支度はしない。
(一条略)
右の条々、全ての所に必ず知らせ、これから必ずこれらのことを守らせるように、常々念を入れ取り調べる。
寛永二十年未三月十一日
とある。①はぜいたくな家屋の禁止、②③は衣類の制限、④は雑穀の強制と米飯の制限、⑤はうどん・そうめん・そば・まんじゅう・豆腐等の売買禁止、⑥は酒造り・酒売買の禁止、⑦は町へ出ての飲酒の禁止と、農民の生活の衣食住に至るまで細かに規制して、消費生活をできるだけ抑えようとした。また、その他の生活でも、⑪は乗物の禁止、⑯は仏事・祭礼などの規制まで行っている。
そして、領主の農民に対する年貢確保のために、⑧は耕地の入念な手入れ、⑨は耕作不能時の相互扶助、⑩はたばこの作付け禁止、⑬は田畑永代売買の禁止と、田畑の耕作の心構えと規制をあげている。さらに、⑫は遊民の村内の滞在の禁止、⑭は訴訟人や駆け落ち人の宿泊の禁止、⑮は年貢未納以前の移転の禁止を目指していた。五人組の制度化によって、連帯責任を利用した農民支配体制が一層強化させられた。
17図 村役人の家
(ミュージアム氏家の北に家屋がある)江戸時代後期、矢板市塩田から移築