20図 日蓮宗 妙福寺(亀梨)
幕府は国内統一をはかるためにキリスト教と日蓮宗の不受不施派を禁止した。
幕府は、キリスト教の布教がスペイン・ポルトガルの侵略を抱いたり、キリスト教徒が信仰のために団結することを恐れ、慶長十七年(一六一二)幕領に禁教令を出した。翌年これを全国に及ぼして信者に改宗を強制した。寛永十四年(一六三七)から翌年にかけて島原の乱が起こった。農民の三万余の一揆勢に対して、幕府は十二万の軍勢で一揆を鎮圧した。
また、幕府は、法華宗を信じない者の施しを受けず、また施さないという日蓮宗の一派不受不施派も禁止した。これは、慶長四年(一五九九)京都の妙覚寺日興が徳川家康に教義を聞かれたときに説を変えなかったので、彼の不受不施派を弾圧したことに始まる。
幕府はキリスト教の改宗者であることの証明を檀那寺に出させた。檀那寺から出させた証明書を寺請状という。それを一般の人々に広げ、出生や結婚、死亡、旅行、出稼ぎ、奉公のときに寺請状を出させた。寛文十一年(一六七一)に宗門人別改帳の作成が制度化された。これが寺請制度である。
宇都宮領でも宗門改めが実施された。村人は庄屋宅に集められ、宗門改めの条文を読み聞かせられた。
享保十六年(一七三一)の「下野国宇都宮領竹林條塩谷郡亀梨村宗門御改帳」(史料編Ⅱ・三三三頁)の前書きは、
切支丹宗門御改前書
一 切支丹宗門を禁じた高札の趣旨に従って、宇都宮領でも毎年御改めを仰せつけられ候通り、堅く守ります。
一 名主・組頭は申すに及ばず、当村中に切支丹宗門の者やそれに類する者、切支丹から仏教に転向した者もごさいません。且つまた、近年禁じられた悲田宗・不受不施派の宗門の者もございません。もし寺を頼まないで、自分で死骸を埋葬するなど不審な者がいたら、隠し置かないで役人へ必ず申し上げます。勿論借家・店借・小作・召使い・水呑百姓などに至るまで、それぞれの宗旨を一人一人取り調べ、寺請状をその主人・地主・大家方に取り置くようにします。
一 今度、宗門改めに付き、この帳面に書き落とした者は一人もありません。もし他から訴え人があったら、名主・五人組・旦那寺の僧が出て、申し訳をします。
とある。村人の一人一人が禁止している切支丹宗門と悲田宗・不受不施派でないことを名主・五人組・檀那寺が認めている。
次に、家ごとに、信仰する宗旨、宗派を取り調べた。よって、宗門改め帳を、宗門人別帳ともいう。今の戸籍や住民票の役割をしていた。名主・七郎右衛門の家については、
本国生国共下野国亀梨村 家持
一 旦那寺法華宗亀梨村妙福寺、当亥歳拾六 七郎右衛門
とあり、「彼が、家持ち(戸主)で、本国生国共に下野国亀梨村で、旦那寺は法華宗の亀梨村の妙福寺、当亥歳(享保十六)に拾六歳となっている」ことがわかる。七郎右衛門の本籍や出生地、戸主との関係、年齢、名前が記載されている。七郎右衛門の妹・すわが十四歳、弟・亀次郎が三歳、母が四十七歳である。また、家族四人が「本国生国共右同断」とあり、亀梨村生まれであることもわかる。
七郎右衛門家には、五人の奉公人がいた。
比者上亀梨村佐左右衛門前地四郎右衛門妻
同人(七郎右衛門)下女
一 禅 宗 去ル酉十二月より召抱申候 なつ
比者上亀梨村伊平次弟 同人下男
一 同 去戌十二月より召抱中侯 藤八
此者芦野民部様御知行所 同人下男
一 真言宗 烏麦村より去戌十二月より召抱申候 茂兵衛
比者上亀梨村長佐衛門男子 同人下男
一 禅 宗 去戌十二月より召抱申候 市助
比者黒田豊前守様御知行所 同人手代
一 天台宗 小林村より申十二月より召抱申候 善右衛門
とあり、下男、下女のなつと藤八、市助が上亀梨村から来ていて、宗派が禅宗とある。旦那寺は上亀梨村の量山寺である。下男の茂兵衛は真言宗で烏麦村(後福岡村、現南那須町)から、手代の善右衛門は天台宗で小林村(現真岡市)から来ていた。
大谷村の熊蔵らの入植が、氏家の浄土宗西導寺の宗旨一札のもとに行われた(史料編Ⅱ・三六四頁)ように、この三人は上亀梨村の量山寺から宗門送り状を持参して自分の宗派を証明したのである。
上亀梨村は名主・伝兵衛組、下亀梨村が七郎右衛門組であった。
また、七郎右衛門の家の後に、前地の吉兵衛以下の家族が記載されている。
終わりに、
右宗門改めの男女や僧共に、旦那に間違いありません、もし外より御法度の宗門と言う者がいたなら、私どもが必ず出かけて申し開きをします。後日のためによって件のごとし。
亀梨村
上総国山辺郡東金村本漸寺末寺法華宗 妙福寺
同村
下野国河内郡宇都宮田中成高寺末寺禅宗 量山寺
とある。檀那寺の妙福寺と量山寺が証明している。妙福寺は七郎右衛門家と前地惣兵衛など七家、量山寺は前地の善左衛門家など七家である。
享保十六辛亥年
和田 忠兵衛様
小田 平右衛門様
惣人数合 六十五人内 男 三十八人
女 二十七人
内 奉公人 六人男
残て有人 五十九人内 男 三十二人
女 二十七人
家 十四軒
寺 一ヵ寺
宮 五ヵ所
とあり、宗門改役の和田忠兵衛と小田平右衛門に宗門改帳を提出した。村人の人数と家数、寺、宮の数も記されている。
最後に
右帳面の通り、切支丹宗門の者はいません、尤も、それぞれの宗門を取調べて、旦那寺の僧から印を取って差し上げました、ただ今、お改めの時、念を人れないで、もし切支丹宗旨の者がいて、外より明らかになったら、その者の家主ならび主人は勿論、旦那寺の僧・名主・五人組まで、どのような罰でも申しつけてください、かつまた、当村へやって来て住みたいという者があったら宗旨を念人りに改め、勿論、前の旦那寺を調べ、疑いは少しもないようにします。私たちが連判して差し上げます。後日のために奥書し、よって件の如し。
竹林筋亀梨村 庄屋七郎右衛門
享保十六辛亥年
和田 忠兵衛様
小田 平右衛門様
と証明してある。宗門改めも名主の大切な仕事となった。
また幕府は、宗教をも支配機構の一つに組み入れ、五人組とともに重要な農民統制の一つとした。
21図 曹洞宗 量山寺(亀梨)