25図 寛政12年の桑窪村宗門帳(桑窪 谷口高次家文書)
寛政十二年(一八〇〇)の「下野国塩谷郡桑窪村宗門帳」(史料編Ⅱ・三四七頁)には、平左衛門の倅 兼右衛門の妻に
烏山御領分八ツ木村郷助娘
一 同寺旦那 女房たに
六年以前縁付参り候 当申四拾九才
とあり、前の領地と村名、親の名前などがわかる。何年前に結婚・婿入り・養子縁組をしたかも記載されている。「縁付参り候」は七十六名いた。桑窪村は「御領知当村」とある。
「御領知栗ヶ嶋村」や「御領知平田村」とあり、寛政十二年の高根沢は一橋領が多かった。「宇都宮御領分大谷村」と「宇都宮御領分柳林村」とあり、大谷と柳林は宇都宮領であった。また、「喜連川御領分伏久村」と「喜連川御領分文挟村」とあり、伏久と文挟は喜連川領であった。
「稲垣大膳様御知行所柏崎村助右衛門娘、四年以前縁付参り候 女房はつ 当申廿四才」(史料編Ⅱ・三五五頁)と「御領知柏崎村与右衛門娘、弐年以前縁付参り候 女房こよ 当申廿二才」(同三五四頁)とある。柏崎村は「稲垣大膳知行所」(旗本領)と「御領知」(一橋領)に二分されていた。
これらを21表「寛政十二年 嫁入り村名一覧」にまとめた。桑窪村の村内の結婚や婿入り、養子縁組は三十一名いた。
隣村の柏崎村は三名、太田村は一名、栗ケ嶋は五名、八ツ木村(芳賀町)は二名、八ケ代村(南那須町)は一名がいた。
遠くの村では、大谷村の四名、板戸村(宇都宮市)の一名、刈生田村(市貝町)の一名、落合村(烏山町)の二名である。これらの村も、地図上では桑窪村からの直線距離は九キロメートルであった。
桑窪村の人数は、「下野国塩谷郡桑窪村宗門帳」に「百七十九人男、百四十六人女、山伏弐人、僧壱人」(史料編Ⅱ・三六二頁)とあるが、数えると「男百八十人、女百四十九人、山伏二人、僧一人」となる。
最高齢者は、直七の父・治五右衛門の八十五歳と直七の分地・兵右衛門の母・はなの八十六歳であった。男の平均年齢は、三十三・〇歳、女は三十三・三歳とほぼ同じであった。
男が百七十五人、女が百四十人と男の方が多い。宗門帳の多くも、女よりも男の人数が多い。これは、下野国は日光街道の助郷負担のために村々が困窮し、間引きが行われたためといわれている。
22表「桑窪村 寛政十二年年齢構成」でも、女に比べて男が年齢構成でバラツキが見られる。これは、全体数が少ないことと、自然災害や貧困のためと思われる。
21表 桑窪村寛政12年 嫁入り村名一覧
村名 | 人数 | 領名 | 村名 | 人数 | 領名 | 現市町名 |
桑久保 | 31 | 一橋領 | 八方口 | 1 | 宇都宮領 | 氏家町 |
伏久 | 2 | 喜連川領 | 落合 | 2 | 黒羽領 | 烏山町 |
文挾 | 1 | 喜連川領 | 大和久 | 1 | 烏山領 | 南那須町 |
大谷 | 4 | 宇都宮領 | 田野倉 | 1 | 森田(大田原)領 | |
柳林 | 1 | 宇都宮領 | 鴻之山 | 2 | 大田原領 | |
前高谷 | 3 | 一橋領 | 烏麦 | 1 | 芦野領 | |
平田 | 2 | 一橋領 | 八ヶ代 | 1 | 大田原領 | |
柏崎 | 3 | 一橋領 | 刈生田 | 1 | 一橋領 | 市貝町 |
稲垣大膳知行所 | 高根沢 | 2 | 一橋領 | 芳賀町 | ||
寺渡戸 | 1 | 一橋領 | 八ッ木 | 2 | 烏山領 | |
太田 | 1 | 一橋領 | 芳志戸 | 1 | 一橋領 | |
栗ヶ島 | 5 | 一橋領 | 上稲毛田 | 2 | 黒羽領 | |
上高根沢 | 2 | 一橋領 | 稲毛田 | 2 | 本多五郎知行所 | |
板戸 | 1 | 一橋領 | 宇都宮市 | |||
計 | 25 | 計 | 20 |
22表 桑窪村寛政12年 年齢構成