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初期の新田開発

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23表 寛文11年(1671)新田開発の状況      単位:畝・歩、石
村名 新開反別 分米
下太田 653 - 15 ( 24 - 24)12 . 7900 ( 1 . 2400)
関俣 904 - 12 ( 16 - 21)22 . 0075 ( 1 . 3360)
上柏崎 484 - 21 9 . 2970
桑久保 1704 - 18 ( 9 - 00)40 . 3525 ( 0 . 3600)
寺渡戸 296 - 15 ( 22 - 21)9 . 0695 ( 1 . 5890)
上高根沢 5368 - 12 ( 45 - 12)86 . 1750 ( 2 . 7240)
宝積寺 1895 - 27 ( 1 - 00)35 . 6190 ( 0 . 0600)
石末 2330 - 15 ( 8 - 27)36 . 6865 ( 0 . 4005)
栗ヶ嶋 484 - 24 ( 4 - 18)24 . 6380 ( 0 . 2530)
平田 1659 - 21 ( 21 - 27)29 . 0295 ( 1 . 3140)
合計 15785 - 00 ( 155 - 00)305 . 6645 ( 9 . 2765)

出典:宇津史料館、寛文11年「上高根沢村新田御縄帳」他より作成
注1.( )内の数値は、新開反別のうち屋敷地反別及びその分米である。
 
 幕藩体制が確立し、社会も安定してくると、領主は領内の整備とともに経済力増強のための対策を講じるようになる。なかでも米の生産高を増加させる新田開発には、かなりの熱意をもってあたっている。農民にとっても、これまでの本田畑から収穫される石高は限られたものであったから、石高を増加する意欲は、いまだ耕地になっていない土地に向けられていく。それは小農民自立の大切な条件にもなったと思われる。
 しかし、新田開発には多くの資本と労力を必要としたから、農民は本田畑の周辺にある土地を開墾するという「切添・持添」といった方法で、小規模ながら耕地の開発を続けていた。本田畑の延長上に新たに開かれたこれらの土地を切添新田とか持添新田という。個々の農民の個別経営の延長として行われた小規模な開発は記録には残りにくいが、村単位で行われた大規模な切添の場合、新田村が形成されることもあった。こうした経緯は、野場境出入りの史料にその一端をうかがうことができる。
 十七世紀中期以降、小農民を自立させるために、幕府をはじめ領主は新田開発に多額の費用を投資し、農民を移住させて未開の荒野の開墾に当たらせるようになった。宇都宮藩主奥平忠昌も「市之堀用水路」の開削をはじめ、新田の開発にその意を注いでいる。
 寛文十一年(一六七一)段階の高根沢町域の新田開発の状況は、23表の通りである。上高根沢村で五十三町六反余、石末村で二十三町三反余、宝積寺村で十八町九反余、桑久保村で十七町余、平田村で十六町五反余、その他六か村を合わせると、この年までに百五十七町八反余におよぶ大規模な新田開発が行われている。分米にして三百五石六斗余になる。このような開発に当たっては、いろいろ困難があり、特に湿地の多い上高根沢村や平田村の場合には相当の努力を要したものと考えられる。