26図 赤堀新田開発の時期を示す文書(上高根沢 宇塚 茂家文書)
新田を閧発して少しでも多くの年貢米を収穫することに専念していた当時において、稲作栽培に欠くことのできないものは用水である。用水設置のめどがついてはじめて新田開発ができ、検分を受け、年貢収納地になる。
松平下総守領分であった寛文九年(一六六九)、石末村・上高根沢村・宝積寺村三か村の入会野場である赤堀に新田が開発された。この新田は、「御見立ヲ以新田開発仰付けられ」(宝積寺 加藤俊一家文書)たところであり、二十五軒の農家が開発に当たった。このために、用水の確保は第一の条件である。これについて同年三月の「相渡申一札之事」(史料編Ⅱ・三九三頁)の中で、下高根沢村の村役人は、次のように保障している。
宇都宮領石末村の野を新田に開発するにあたり、鬼怒川から取水するための新堀を造成するが、この落水は何ら当方(下高根沢村)に迷惑はかからないので、その旨宇都宮奉行所へお伝え願いたい。落水使用について何か問題が出来したときには、下高根沢村役人が責任をもって解決する。このことによって、赤堀の新田開発は可能になったのである。
同年六月の「覚」(上高根沢 宇塚茂家文書)には、「赤堀に田一町歩を開発し、酉の年(寛文九年)に検分を受け、新関ができ、翌戌の年から稲作を仕付けている」ことと、「丑の年(延宝元年)に検分を受けた上で、石高を定め、同年の暮から年貢米を上納する」ことか記されている。この「覚」の文末に、六月十三日付の田部茂左衛門・印南久右衛門の署名捺印がある。寛文十年の稲作開始から延宝元年の年貢上納までの間が三年ほどあるが、その間新開耕地は無年貢地にするということであろう。いわゆる鍬下年季の取り扱いである。この「覚」は、赤堀の新田に対する開発権と三年間無年貢地であることを保障したものと思われる。
赤堀を中心として新田開発は年々進められていく。延享二年(一七四五)には上高根沢村地内の壱斗内にも、十六軒で十九筆の下田二反三畝を切り開いている(上高根沢 宇塚茂家文書)。開発が進むにつれて水不足や秣場不足が問題となり、用水出入・野場境界争論が起こってくるのであるが、それは項を改めて述べることにする。明和三年(一七六六)の赤堀新田村差出帳では、田畑総反別六十五町八反三畝十三歩とある。
先にも述べたように、赤堀新田は石末村の枝郷として位置付けられていたが、安永三年(一七七四)四月の「差上申一札之事」(宝積寺 加藤俊一家文書)に、赤堀新田の開発がかなり進展していることが記されている。それによると、「石末村枝郷で馬喰久保に下々畑二十五筆・反別二町七反二畝十八歩、二子塚に下々畑十二歩、上ノ原に下々畑八筆・反別四反二畝十八歩」とあり、その開発面積は下々畑三十四筆・反別三町一反五畝十八歩にのぼる。このように開発が進んでくると、寛文九年(一六六九)に取り替わした約定にある新堀からの落水を利用した新田開発は行き詰まりの方向に向っていった。その上、三か村の秣場内を新開墾しての畑地であるから、当然の成り行きとして秣場不足となり、赤堀新田村と周辺の村々との秣場境界争論が起こってくる。
また、これまで秣場であった荒地を切り拓くのであるから、開発に当たった農民の苦労は並たいていのことではなかったと思われる。しかし、赤堀に最初に入植した二十五軒の農民たちは、地道にその開発を進めていき、延宝六年(一六七八)には検地を受けて、村高百十石余・百姓二十五軒の赤堀新田村と認められたのである。二十五軒の農民たちが赤堀に入植して十年の歳月が経ったときであった。だが、ようやくの思いで切り拓いてできた新畑に作物を仕付けたところ、猪鹿の喰い荒しにあい、手入れも行き届かず、元の荒地になってしまったと嘆く農民の声が、安永三年(一七七四)三月の「宝積寺村・赤堀新田村秣場境論出入帳」(宝積寺 加藤俊一家文書)に見える。
郷帳に記載されている赤堀新田は、「石末村枝郷赤堀新田」であり、村高は次のように記されている(史料編Ⅱ・三~四頁)。
元禄郷帳 一 高弐百拾三石壱斗四合 石末村枝郷赤堀新田
天保郷帳 一 高弐百拾六石六斗壱升八合 石末村枝郷赤堀新田
明和三年(一七六六)の「赤堀新田村指出帳」(史料編Ⅱ・一〇頁)には、
一 家数弐拾五軒 内弐拾弐軒百姓家・三軒水呑家
一 人別百五拾七人 内八拾弐人男・七拾四人女・壱人道心
とある。
27図 新田から発展した赤堀