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赤堀新田村の苦闘

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 石末村・上高根沢村・宝積寺村三か村の入会野場の内を開発して成立した赤堀新田と、前記三か村との間には、新田村成立当初から、秣場に関する争いが起こっていたようである。
 延享二年(一七四五)の「乍恐以書付奉願候御事」(上高根沢 宇塚茂家文書)によると、赤堀新田の主張は、次の通りである。
 赤堀新田の事は、先年(寛文九年)新田開発を仰せ付けられ、新田になるべき場所を近年まで開発してきた。上高根沢村内の壱斗内も開発し、検地を受けて新田高に入れてある。それ故、壱斗内は赤堀新田村地である。その証拠に、新開の時も検地で当村の縄帳に書き上げた時も、上高根沢村から何の故障もなかった。
 ところが、寛保三年(一七四三)六月、赤堀新田の農民が秣刈りをしているところへ、上高根沢村の農民が大勢押し掛け、鎌を取り上げるという事件が起こった。赤堀新田では早速手代に訴え出たところ、「当分、上高根沢村との間における秣場に出入りのことについては待っていよ」と命じられたので、待ち控えていた。翌延享元年(一七四四)七月、赤堀新田村地内の年貢地「芝山」へ上高根沢村の農民が押し入り、秣を刈り散らすという事件が起こると、やむなく赤堀新田村の全百姓連名で代官所へ訴え出ている。
 このことについての結果がどうなったかは、史料に出ていないので不明である。
 明和八年(一七七一)六月に起きた宝積寺村との秣場出入の時も、赤堀新田村は話し合いをもって解決したいと申し入れたが、聞き入れてもらえなかった。事の顚末を記した「宝積寺村・赤堀新田村秣場境論出入帳」(宝積寺 加藤俊一家文書)によると、「(前略)私ども村方は、新田にて村高も少なく、小村ゆえ、これまでもいろいろ難題を持ちかけられたり、当村地内の秣場へ押し入り、秣を採られたりしている」と、その難儀のほどを述べている。赤堀新田村は、もともと石末村・上高根沢村・宝積寺村三か村の入会野場であったことから、秣場境界や村境について、前記の村々から難題を持ち掛けられることが多かった。
 また、土地がら猪鹿の棲息地でもあったので、新田畑に開拓してもそれらの鳥獣害もはなはだしく、赤堀新田村の農民たちは、開拓農民として幾多の苦難を乗り越えねばならなかったのである。
 頼りになるのは代官所の役人による裁定であったが、赤堀新田村の農民か望んでいたような結果ではなかったことが知られる。しかし、赤堀新田村の農民たちは、新田村であり、小村で村高も少ないからと難題に耐え、村の存続にいそしんできたのである。新田開発に当たる村民の結束力と我慢強さが、赤堀新田村を存続させた原動力であったといっても過言ではない。