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新開反別の推移

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 高根沢町域は、東部と西部の一部を除けば、ほとんどが平地や湿地である。新田開発と用水路の造成に力を注ぐ政策が採られるようになった十七世紀中期、当町域は新田開発に最も適した地形であった。その開発反別を「新田畑検地帳」が多く残されている村々でみると24表の通りである。各村における新開反別が最も多い年は寛文十一年(一六七一)、次いで正徳三年(一七一三)である。前者は宇都宮藩の新田開発奨励による政策の結果である。
 年号が宝永から正徳に改められた元年(一七一一)、九州から東海地方に大風雨が襲い、農作物、とくに稲作の収量が激減した。翌二年も七月から九月に至るまで長雨が続くという異常気象により諸国に大洪水が起こった。二年続きの大凶作の最中でも、農民たちは新田開発にいそしんだものと考えられる。正徳三年五月、幕府は大坂市中における米価騰貴のため、蔵米の蔵出日限の厳守と米の買占めを禁止する法令を出している。当町域の村々における新田開発も、遠因はそこにあると考えてよい。