26表 上高根沢村の新開田畑反別の推移 単位:畝・歩、%
年代 | 新開田反別 | 新開畑反別 | 田畑反別合計 |
寛文11(1671) | 1,304-09(24.5) | 4,018-21( 75.5) | 5,323-00(100.0) |
延宝 6(1678) | 483-06(80.9) | 114-00( 19.1) | 597.06(100.0) |
正徳 3(1713) | 986-20(95.9) | 41-26 ( 4.1) | 1,028-16(100.0) |
享保 3(1718) | 185-23(53.3) | 162-05( 46.7) | 347-28(100.0) |
享保10(1725) | 100-21(47.0) | 112-13( 52.6) | 213-04(100.0) |
享保12(1727) | 33-26(14.4) | 196-18( 85.2) | 230-14(100.0) |
寛保 2(1742) | 0-00( 0.0) | 553-02(100.0) | 553-02(100.0) |
合 計 | 3,094-15(37.3) | 5,198-25(62.7) | 8,293-10(100.0) |
出典:宇津史料館、寛文11年「上高根沢村新田御縄帳」他より作成、畑反別から屋敷地を除いてある。
上高根沢村地内へは多くの小河川が流れ込み、その多くは下高根沢村へと流れ下っていた。大谷村地内の井亀沼を水源とする井亀川、西高谷村から寺渡戸村を通過してくる川うそ沼川、岩清水と宿沼の湧水を水源とし、寺渡戸村から流れてくる長宮川、栗ヶ嶋村からの海老川、氏家村からの山根川が、それぞれ当村地内に流れ込み、下高根沢村へと流れていた。この他に石沼川・行沢川・五行川も当村地内へ流れ込み、下高根沢村へと流れている。このように上高根沢村一か村の地内に八つもの小河川が流れ込んでくるため、その地形は低地で湿地が多かったことが知られる。
このことは、寛延二年(一七四九)の「上高根沢村差出明細帳」(史料編Ⅱ・一四頁)からもうかがえる。それによると、「当村(上高根沢村)は地窪(低地)で水付き地(湿地)が多く、百姓地(田畑)内は悪水除けの堀浚い」をしなければならず、そのために「悪水除けの堀」を「一つは長さ七百間・横五間・深さ一間半、山下にある悪水除けの堀は長さ百五十間・横二間・深さ一間半、大がけ下の悪水除けの堀は長さ百八十間・横二間・深さ一間半」というように三か所に作っている。この三つの悪水除け堀の長さは、実に千三十間に及んでいる。
また、小河川の流入が多いことから、当然川除堤も年々修復しなければならない。この点については、次のように記している。
山根川川除堤 高さ二間・鋪二間・長さ八十間・馬踏壱間
五行川川除堤 高さ三間・敷六間・長さ百六間・馬踏三間
行沢川川除堤 高さ弐間・敷三間・長さ百五十間・馬踏壱間半
上高根沢村だけで川除土堤の総延長は、三百三十六間もある。悪水除け堀と川除土堤の存在から、上高根沢村農民が常に水との闘いの中で農業を営んできたことを知ることができる。
新田開発に適した地域と考えられる上高根沢村の、寛文十一年(一六七一)から寛保二年(一七四二)までの新開田畑反別をまとめたものが、26表である。寛文十一年では水田二四・五パーセントに対し、畑地が七五・五パーセントであり、畑地が水田の三倍である。延宝六年(一六七八)になるとその割合が逆転し、畑地一九・一パーセントに対し、水田が八〇・九パーセントと、水田か畑地の四倍になっている。正徳三年(一七一三)の新開は、そのほとんどが水田であり、畑地はわずか四パーセントにすぎない。同表で見るかぎり、上高根沢村の水田開発は正徳三年をもってほぼ完了し、享保期以降は新畑開発が主流になっていったと考えられる。
十七世紀後半から十八世紀初頭にかけて、上高根沢村で新田開発が盛んに進められたのは、「村内に用水堰十か所を設け、溜井の水を用い、川除堤全長三百三十六間・高さ二~三間の堤を築き、用水路を整備している」(寛延二年「上高根沢村差出明細帳」(史料編Ⅱ・一四頁))からである。しかし、同表の新開反別の総計を比較すると、水田三七・三パーセントに対し、畑地は六二・七パーセントであり、新畑が多かったことがわかる。水利のよい地域であっても、水田に適した土地が少なかったのであろう。
新田開発の推移を通してわかることは、新開地を水田にすることの難しさである。当時の農業経営は、稲作が主流であったといわれるが、当地域では畑作が多かった。その作付作物の種類は、「粟・稗・大豆・芋・小豆・綿・大角豆・もろこし・煙草・麦・小麦・菜・大根・そば」(史料編Ⅱ・一四頁)というように多岐にわたっており、それが農業経営の実態だったのである。