○ 岡穂(陸稲)―春の土用末時からだんだん蒔き付ける。
○ 木綿―四月中旬過ぎから蒔き付ける。
○ 苗代―春土用末から八十八夜の時分までに蒔き付ける。
○ 田植え―五月中旬から前後二十日の間に植え付ける。
○ 大根・煙草―夏土用末時から蒔き付ける。
○ 大麦・小麦―秋の土用初めから土用過ぎまでに蒔き付ける。
この後には、一反歩に要する種子量と施肥料についての詳細な記述がある。
○ 稗―一反歩につき種子二合くらい、肥料は干鰯と堆肥・草木灰を用いる。
○ 岡穂(陸稲)ー一反歩につき種子三升くらい、肥料は干鰯と堆肥・草木灰を施す。
○ 大豆―一反歩につき種子一升六合くらい、肥料は干鰯と堆肥・草木灰を用いる。
○ 綿―一反歩につき種子約一斗くらい、肥料は大豆に同じ。
○ 苗代―種子一斗蒔きに、肥料は干鰯一斗五、六升を施す。
○ 田植え―干鰯を少し施す。
○ 大根―肥料は糠と草木灰を合わせて用いる。
○ 大麦―一反歩につき種子八升から九升くらい蒔き、肥料は「こぬか」と堆肥を合わせて施す。
○ 小麦―一反歩につき種子四升くらい、肥料は「こぬか」と堆肥を合わせて施す。
○ 籾―一反歩につき種子七升から八升くらい。
この記載からは、それまで用いられてきた自給肥料の堆肥や厩肥・緑肥に加え、速効性のある「干鰯」が使用されていたことがわかる。干鰯の使用は、土地の生産力を大いに高め、農産物の増収をもたらした。しかも、自給肥料作りのために投入していた労働力の削減も可能にした。この結果、農業生産力が増強されるとともに、小農経営者は労働力を削減し、余業稼ぎができるようになったのである。
寛延二年(一七四九)の「前高谷村差出明細帳」(史料編Ⅱ・三五頁)によると、田畑各一反に施す肥料について、「田方の上田・中田には金二分から二分二朱、下田・下々田には金三分から一両を要す。畑方の上畑・中畑には金二分から二分二朱、下田・下々田には金二分から三分を要す」と記している。また、同年の「上高根沢村差出明細帳」(史料編Ⅱ・一四頁)では、「田畑一反歩につき干鰯と糠を七斗から一石二斗施し、その金額は金三分から一両一分」であると記している。これらの金額は金肥購入に要するものである。参考までに、寛政期以降の金肥一俵当たり値段を表示しておこう(27表)。金肥の購入代金は、農家の生産費を一気に上昇させ、支出の中で大きな位置を占めるようになった。
このように十八世紀の半ばには、高根沢町域の村々では、田畑の耕作に下草肥を十分入れるとともに、農業生産力を増強するために干鰯・〆粕・糠などの購入肥料を用いていたのであった。購入肥料の導入は、生産費を高めることにはなったが、反当たりの収穫量を高めるとともに、集約的な農業経営へと方向転換させる契機になったのである。
27表 金肥一俵当たりの価格推移
年代 | 〆粕一俵の価格 | 干鰯一俵の価格 | |||||
140文位 | |||||||
500文位 | |||||||
出典:亀梨 鈴木重良家、「粕干鰯売場控帳」「粕売上帳」(各年)より作成