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農業生産と農村の変容

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 近世の農業の中心は、米納年貢制の規定を受け、稲作を軸とした集約的農業であった。しかし、農民にとって労働力を再生産するための自給作物の生産は畑地において行われていた。天明三年(一七八三)の「関俣村差出明細帳」(史料編Ⅱ・二七頁)に、畑方の作付時期と蒔付の種子量について、また、田方に関しても、苗代づくりの時期や田植えの時期について次のような記載がある。
 
  ○ 岡穂(陸稲)―春の土用末時からだんだん蒔き付ける。
  ○ 木綿―四月中旬過ぎから蒔き付ける。
  ○ 苗代―春土用末から八十八夜の時分までに蒔き付ける。
  ○ 田植え―五月中旬から前後二十日の間に植え付ける。
  ○ 大根・煙草―夏土用末時から蒔き付ける。
  ○ 大麦・小麦―秋の土用初めから土用過ぎまでに蒔き付ける。
 
 この後には、一反歩に要する種子量と施肥料についての詳細な記述がある。
 
  ○ 稗―一反歩につき種子二合くらい、肥料は干鰯と堆肥・草木灰を用いる。
  ○ 岡穂(陸稲)ー一反歩につき種子三升くらい、肥料は干鰯と堆肥・草木灰を施す。
  ○ 大豆―一反歩につき種子一升六合くらい、肥料は干鰯と堆肥・草木灰を用いる。
  ○ 綿―一反歩につき種子約一斗くらい、肥料は大豆に同じ。
  ○ 苗代―種子一斗蒔きに、肥料は干鰯一斗五、六升を施す。
  ○ 田植え―干鰯を少し施す。
  ○ 大根―肥料は糠と草木灰を合わせて用いる。
  ○ 大麦―一反歩につき種子八升から九升くらい蒔き、肥料は「こぬか」と堆肥を合わせて施す。
  ○ 小麦―一反歩につき種子四升くらい、肥料は「こぬか」と堆肥を合わせて施す。
  ○ 籾―一反歩につき種子七升から八升くらい。
 
この記載からは、それまで用いられてきた自給肥料の堆肥や厩肥・緑肥に加え、速効性のある「干鰯」が使用されていたことがわかる。干鰯の使用は、土地の生産力を大いに高め、農産物の増収をもたらした。しかも、自給肥料作りのために投入していた労働力の削減も可能にした。この結果、農業生産力が増強されるとともに、小農経営者は労働力を削減し、余業稼ぎができるようになったのである。
 寛延二年(一七四九)の「前高谷村差出明細帳」(史料編Ⅱ・三五頁)によると、田畑各一反に施す肥料について、「田方の上田・中田には金二分から二分二朱、下田・下々田には金三分から一両を要す。畑方の上畑・中畑には金二分から二分二朱、下田・下々田には金二分から三分を要す」と記している。また、同年の「上高根沢村差出明細帳」(史料編Ⅱ・一四頁)では、「田畑一反歩につき干鰯と糠を七斗から一石二斗施し、その金額は金三分から一両一分」であると記している。これらの金額は金肥購入に要するものである。参考までに、寛政期以降の金肥一俵当たり値段を表示しておこう(27表)。金肥の購入代金は、農家の生産費を一気に上昇させ、支出の中で大きな位置を占めるようになった。
 このように十八世紀の半ばには、高根沢町域の村々では、田畑の耕作に下草肥を十分入れるとともに、農業生産力を増強するために干鰯・〆粕・糠などの購入肥料を用いていたのであった。購入肥料の導入は、生産費を高めることにはなったが、反当たりの収穫量を高めるとともに、集約的な農業経営へと方向転換させる契機になったのである。
 
27表 金肥一俵当たりの価格推移
年代〆粕一俵の価格干鰯一俵の価格
寛政9(1797)2分1貫140文位
寛政10(1798)2分1貫150文位1分
寛政11(1799)2分650文位2朱500文位
享和1(1801)2分1貫400文位1分400文位
享和3(1803)2分1貫200文位
文化1(1804)1分300文位1貫300文位
文化2(1805)2分100文位2朱600文位
文化3(1806)2分1貫
文化4(1807)2分700文位1貫500文位
文化5(1808)2分1貫600文位

出典:亀梨 鈴木重良家、「粕干鰯売場控帳」「粕売上帳」(各年)より作成