これらの購入額を施肥量に換算したものか、28表である。同表を見るかぎり、田方へ施す金肥の量と畑方へ施すその量は、ほぼ同じである。その用途を天明三年(一七八三)の関俣村の「村差出明細帳」(史料編Ⅱ・二七頁)で見てみると、「苗代・植田」に使用した以外に、「稗・岡穗(陸稲)・大豆・綿」にまで購入肥料の干鰯が用いられていたことが記録されている。このことは、米納年貢制の規定による水稲栽培を中心とする農業経営から、自給作物の畑方への金肥施肥によって増収をはかる商業的農業経営への変容の始まりといえる。しかも、この三ヵ村では、綿・大豆・煙草など換金性の高い作物が作付けられている。これは、商品貨幣経済が、農村へ次第に浸透していることを示しているとも考えられる。
28表 寛延2年(1749)田畑への金肥施肥量(一反当たり) 単位:俵
前 高 谷 村 | 上 高 根 沢 村 | |||
田 方 | 畑 方 | 田 方 | 畑 方 | |
〆粕換算 | 1~1.5 | 1~1.25 | 1.5~2.5 | |
1.5~2 | 1~1.5 | |||
干鰯換算 | 2~2.5 | 2~2.5 | 3~5 | |
3~4 | 2~3 |
出典:史料編Ⅱ・14~35頁より作成
注.〆粕・干鰯とも、上段は「上・中田(畑)」、下段は「下・下々田(畑)」の数値である。