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亀梨村の肥料商

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29表 亀梨村鈴木家の〆粕・干鰯売掛俵数         売掛俵数単位:俵
年代売掛俵数販売高
〆粕干鰯合計
寛政9年(1797)8208253両 3分、21貫818文
寛政10年(1798)6777446両 3分、42貫436文
寛政11年(1799)60.545105.534両、50貫67文
享和1年(1801)1117018169両 2分 2朱、92貫157文
享和3年(1803)184.50184.5115両 3朱、67貫972文
文化1年(1804)2551225779両 1分 2朱、42貫701文
文化2年(1805)5766328両 3分、27貫671文
文化3年(1806)5505531両 2朱、28貫510文
文化4年(1807)586111936両 2朱、69貫945文
文化5年(1808)134.5212364.588両、48貫22文

出典:亀梨 鈴木重良家、「粕干鰯売場控帳」「粕売上帳」(各年)より作成
 
 高根沢町域へ運ばれる干鰯は、鬼怒川を上って下野方面へ入ってくるルートと、那珂川を上って向田河岸(現烏山町)付近で陸揚げされ、陸路で亀梨村へ運搬されるルートのいずれかが利用されていた。那珂川を利用しての干鰯の流通にともない、干鰯の取引にかかわる在方商人が多数現われた。亀梨村の七郎右衛門もその一人であった。
 亀梨村を中心にした干鰯の販売ルートは、広範囲に及んでいる。高根沢町域は言うに及ばず、八ヶ代村・鴻野山村・小倉村・烏麦村(以上現南那須町)、松山村(現氏家町)、喜連川に及んでいる。
 農民が購入する肥料の代金は、一般的には前貸しとされ、秋の収穫期になってから利息付で返済される仕組みになっていた。享和元年(一八〇一)の「粕干鰯売上覚帳」(亀梨 鈴木重良家文書)によると、〆粕一俵を、伏久村と前高谷村の農民へは金二分、銭一貫三百八十九文で渡しているのに対し、中の内村(現南那須町)と鴻野山村の農民へは金二分、銭一貫五百六十三文で売り捌いている。その差百七十四文である。このような肥料代前貸し法による販売値段の相違は、随所に見られる。
 秋の収穫期になっても肥料代を返済できない農民は、田畑や屋敷あるいは山林などを担保にして借金し、肥料代金の返済に当てていた。このことは、農業の生産費を高めることになり、農民の負担を重くしていった。農民は、農作物の販売代金やその他の農間の余業稼ぎに収入に求めるようになるが、それだけで充分な収入を得られるものではなかった。