田方畑方への金肥投入によって、農産物の増収がはかられ、自家消費用の麦や粟・稗などの食糧が間に合うようになってくると、残りの畑地で現金収入用の換金作物を栽培するようになった。もともと煙草・綿・荏・菜種・胡麻などは、自家消費用に栽培されていたが、これらを換金作物として自家消費分以上に栽培するようになったのである。また、醸造業の発展によって、麦や大豆も商品としての価値を高めていった。
嗜好品としての煙草は別にしても、綿は木綿糸や綿織物に加工されて、仲買問屋で現金にできる。しかも、綿の加工は農閑期を利用しての作業が多い。綿つみ・糸つむぎ・綿繰り・機織りなどの作業は、余業稼ぎとして女性や老人の仕事になり得たから、小農経営者にとって最も適した作物であった。
当時、夜なべ作業として行われていた縄ない・菰編み・莚織りなどに、灯油は欠くことのできないものであった。灯油の原料となる荏や菜種の需要は多く、これも換金作物として栽培面積が増加していった。とくに菜種は、水田の裏作として作付けできたから、小農経営者にとって有利な換金作物であった。
宝永八年(一七一一)「下太田村差出帳」(史料編Ⅱ・三七頁)によれば、大豆・荏・稗は、毎年一定量を役高掛物として納める代わりに、その年の相場によって値段が決められ、その金額を納入するという作物であった。農民は、それらの作物の換金化を迫られていたのである。また、大豆や麦は、味噌や醤油の原料になるから、醸造業での需要は高く、その商品価値が高まるにつれ、現金を得るための重要な作物となっていった。このように、自家消費用の作物は、農民らの手によって換金作物としての価値が付加され、商品としての農作物に転換していった。農民も、金肥の投入によって換金作物の生産性を高め、その売買を通して、自給自足経済から農民的商品経済の中へ入っていった。このことが、その後の発展の仕方を性格づける一つの条件となったのである。