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宇都宮藩の百姓夫役

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 検地によって、一つ一つの土地の耕作人が確定し、耕作者の耕作権が認められた。領主は、彼らを本百姓として把握し、彼らの土地の所持高に応じて、年貢と夫役を課した。夫役は賦役とも書く。夫役は労働課税のことで、助郷、道路・河川の土木工事などがあった。農民の夫役は次第に夫米・夫銭などとして代納化されるようになった。
 ここでは、農民がどのような夫役を負担したかを見ていく。
 寛文五年(一六六五)奥平宇都宮藩が狭間田村(旧熟田村)に出した百姓諸役規定(史料編Ⅱ・三六五頁)は次のとおりである。
 
     狭間田村 役の儀申し付け候覚え
  一 田畑の掛かり物の分は、高役にいたす。
  一 万銭役の儀は、高役にいたす。
  一 江戸伝馬並びに詰め夫は、高役にいたす。
     付り、挽き米も前に同じ。
  一 日光・網戸その他近所の伝馬は、頭役にいたす。
  一 関・川除け普請は、頭役にいたす。
     付り、大きな普請や急な時は、人数有り次第出す。
  一 同所・同役は、頭役にいたす。但し、十日を過ぎる普請は、高役にいたす。
  一 入木・入草、宮の役は、頭役にいたす。
  一 山筋へ材木を出す時は、頭役にいたす。
  一 鷹の餌とする犬で百姓が飼い置くものも、頭役にいたす。
  右の通り、少しも相違なく役儀を勤めるべきものなり。
 
とある。
 本百姓の夫役の負担の仕方には、田畑屋敷の所持高に応じて負担する「高役」負担と、男子十六歳から六十歳までに課せられる「頭役」負担との二つがあった。
 田畑の掛かり物や万銭役、江戸伝馬並びに詰め夫、挽き米、十日を過ぎる普請は、高役であった。日光など近所の伝馬、関・川除け普請や入木・入草、宮の役、山筋へ材木を出す時、鷹の餌とする犬で百姓が飼い置くものは、頭役であったことがわかる。
 延宝六年(一六七八)に松平宇都宮藩が同じく狭間田村に出した百姓諸役規定(史料編Ⅱ・三六六頁)も大部分同じものであった。追加されたものは「越石役目は、四石役とする。田畑の受け取りや渡しは、百姓の当事者同士で話し合うこと」である。
 寛文八年(一六六八)に松平忠弘が山形から宇都宮に移封した。前の奥平宇都宮藩は家臣の一部に地方知行をしていた。しかし、松平宇都宮藩は、地方知行を廃止し、その地方知行部分を大名蔵入地とした。その部分を「越石分」といった。高百石に付き四石を、米摺り、夫金、伝馬銭、人馬諸役の代わりに納めさせた。これが後に「四石役」として宇都宮領に広く残ったのである。

1図 寛文5年奥平宇都宮藩が出した百姓諸役規定(県立文書館寄託 小野 耕家文書)


2図 元狭間田村(現氏家町)名主小野耕家の板倉