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小百姓の訴訟

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3図 狭間田村の百姓役に付き一札(県立文書館寄託 小野 耕家文書)

 夫役は労働課役なので、助郷、道路・河川の土木工事などを百姓自身が勤めることになる。農業を営む者にとって、農作業時に外の作業を行うことや、自分自身が拘束されることは、迷惑であったし、大きな負担であった。
 寛文五年の(一六六五)奥平宇都宮藩の百姓諸役規定(史料編Ⅱ・三六五頁)では、土地の持ち高に応じて負担する「高役」と、本百姓の一人一人に課せられる「頭役」とがあった。夫役の負担について、持ち高の多い大百姓には頭役が多い方が有利であり、また持ち高の少ない小百姓は高役が多い方が有利であった。
 延宝八年(一六八〇)の狭間田村の百姓が出した「狭間田村百姓役に付き差上状」(史料編Ⅱ・三六七頁)に「この度、高役・頭役について、何かとわがままを申し上げて、立腹されたこともっとも至極に思います。仰せられた通り承知いたしました(後略)」とある。
 これは、狭間田村の源左衛門や忠兵衛など十一人の百姓が、百姓役の高役と頭役について、藩にその変更を訴えた。高役負担の部分を多くするようにと訴えたと思われる。しかし、庄屋や組頭、大百姓の意向が通り、今まで通りの百姓役規定に従うことになった。そのことを訴えた忠兵衛など十一人の百姓が藩の役人に詫びの一札を出したのである。
 
              指上げ申す一札の事
一 このたび高役・頭役の義につき、何かとわがままなる儀共申し上げ、御立腹の段ご尤も至極に存じ奉り候、仰せ聞こしめされ候通り承り届け申し候、脇砌の事の次第に仕るべく候、
以来とてもわがままなる義申し上げ間敷く候、後日のため仍って件の如し
              狭間田村
   延宝八年        御百姓
       申ノ二月廿九日     源左衛門 印
                   忠兵衛  印
                   次右衛門 印
                   久 作  印
                   与左衛門 印
                   八兵衛  印
                   長左衛門 印
                   六右衛門 印
    加太源兵衛          利右衛門 印
    谷 八兵衛 様        清 吉  印
                   吉左衛門 印
               (県立文書館寄託 小野耕家文書)
 
 宝永六年(一七〇九)にも、狭間田村の百姓治兵衛が、庄屋や組頭に「諸役の詫び証文」(史料編Ⅱ・三六八頁)を出している。庄屋や組頭の村役人は、幕府や藩から割り振られた諸役を村内の農民に割り振る。治兵衛がその割り振りに対して訴訟を起こした。そのことに対して、今後は割り振られた通りに勤めることを誓い、庄屋や組頭の村役人に証文を提出した。
 これらの文書を見ると、農民にとって諸役の負担が大きかったことがわかる。また、小百姓が諸役の割り振りに対して不満を持ち、高役を要求する訴訟を起こしていた。しかし、この二例からは、この段階では名主や組頭の村役人や大百姓の方が、村内における力が強かったことが読みとれる。
 その後、これらの諸役の一部は年貢の中に入れられ、夫米銭として代納化されていった。宝暦五年(一七五五)の平田村年貢割付状(史料編Ⅱ・二五二頁)に、
 
  一 米拾壱石六斗四升六合  四石役
  一 永六百九拾五文九分   田方掛銭
  一 永五百八拾文      夫役
  一 鐚壱貫九百弐拾六文   伝馬銭
 
とある。
 夫役の夫米銭代納化は、農村への貨幣経済の浸透とともに、農民の領主側への労働による負担からの解放要求の成果でもあった。