4図 明和2年下野国川々国役金受取書(亀梨 鈴木重良家文書)
諸役の中で、助郷と市の堀用水の普請が農民にとって大きな負担の一つであった。ここでは、国役と郡役を見ていく。国役は幕府が臨時に賦課するもので、朝鮮聘使参向帰国道中費や大河川の堤防修築費などで課した。
宝永年間は災害の激しい年であった。元年(一七〇四)に洪水が、四年(一七〇七)には富士山の噴火による降灰があった。宝永元年八月に幕府は、「このたび洪水につき、所々の堤破損の所、私領方の分、地頭(知行主が旗本をいう)より普請申し付け来たり候所は、油断なく修復申し付けるらるべく候(後略)」と「覚」(『御触書寛保集成』一三五五)を出している。
また、宝永五年閏正月には、「去冬武州(現東京都・埼玉県)・相州(現神奈川県)・駿州(現静岡県の東部)三か国の内、砂積り候村々御救いかたがたの儀に付き、今度、諸国役、御料・私領共に高百石に付き金二両ずつのつもり、在々より取立て上納あるべく候(後略)」(『御触書寛保集成』一三九九)とある。富士山の降灰は、武蔵・相模・駿河の三か国が激しかった。灰は西風にのり関東一円にも運ばれた。三か国を救済するために、全国の村々に高百石につき二両ずつの上納を求めた。
明和二年(一七六五)十月に「下野国川々国役金」(史料編Ⅱ・三七七頁)が出されている。「去る申年(明和元年)、下野国川々公儀普請国役金」として、「高百石に付き銀七匁三分七厘」で村々に割り当てた。亀梨村の七郎左衛門組は、「永八拾七文四分、銀では五匁五分三厘」を納めた。
国役普請では、その費用の十分の一を幕府が補助し、残りを地方で分担した。このため多くの川普請願いが諸国の村々から出されたので、幕府は寛政元年、享和元年、文化元年に川普請願いの禁止令を出している。
郡役についても夫役があった。伏久・文挟・土室・上柏崎・桑窪を通っている市の堀用水の採り入れ口が大破した時、郡中割りを行っている。
延享五年(一七四八)に、鬼怒川に蛇籠で堰を設けて、水を押上の取り入れ口に流入させたり、水門を修復したりする普請を行った。市の堀水組合十三か村の三千人と郡中割りの六十一か村四千人の合計七千人が人足動員された。郡中割りは、宇都宮領の塩谷郡と河内郡で、市の堀取り入れ口から五里以内の村々に行われた(『氏家町史 上巻』三五二頁)。
また、享和三年(一八〇三)三月の「市之堀水口大破につき上柏崎村から助人足願」(史料編Ⅱ・四一二頁)に、「この度、一ノ堀用水口、押上大破に付き、上柏崎村より御役所へ御願い、右村へ助人足を塩谷郡村々へ人足割付けを以て、仰せ付けられ候えども(後略)」とある。この時の修復の普請人足の割当は塩谷郡だけでなく芳賀郡の一橋領まで及んでいたことが、「市之堀川口大破につき普請人足割当の願書」(史料編Ⅱ・四一一頁)からもわかる。このように、市の堀用水の普請だけでも、多くの郡中割があった。
宝暦五年(一七五五)の前高谷村の皆済目録(史料編Ⅱ・二九三頁)の最後に「外永弐百弐拾弐文九分 郡中割」と、郡中割が皆済目録に表記され、納められていた。明和六年(一七六九)の皆済目録(史料編Ⅱ・二九四頁)にも「永百七拾八文八分 郡中割」とある。郡役にも金納化が見られる。