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村内の普請

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5図 市の堀用水(伏久地内)

 農民は自分の村内の用水や道路の維持のために普請を行っていた。寛延二年(一七四九)の「上高根沢村差出明細帳」(史料編Ⅱ・一四頁)を見ると、上高根沢村には、用水として、「いかめ川 長さ三千七百六十間 幅二間半、いかめ川沼 長さ五十一間 横十二間、川うそ沼 縦二十間 横四間、いかめ流入川 長さ二千二百六十間 幅二間」とある。いかめ川と川うそ沼の外に、長宮川、海老川、山根川、石沼川がある。自然川として、行沢川と五行川がある。これらの用水や川の堀さらいをして、春の流水を待った。時には川の土手や堤防の補修もしなければならなかった。
 長宮川用水の普請については、天明七年(一七八七)の「長宮川用水普請人足割帳」(史料編Ⅱ・三七〇頁)に具体例がある。長宮川用水は、「岩清水より細沼まで八十間、細沼の内百十間、岩清水よりえび川橋まで九百十間、寺渡戸村横沢横まで凡二百間程」があった。「一 壱ばん 宗左衛門 立(たて)拾二間 幅二間余 志き(深さ)壱尺五寸 此(この)人足四拾二人、一 弐ばん 七郎右衛門 みならし弐拾弐坪 志き弐尺 此人足五拾壱人、一 三ばん 善右衛門 立両方之方拾間 み合横五間 志き一尺五寸 此人足三拾五人(後略)」とあり、普請の場所を六十一の区に分けた。延べ人足は千四百五十人となる。これを二十名の農民で割り当てた。最大は左平治の人足百七十六人分であった。
 また寛延二年の「上高根沢村差出明細帳」には、「一 板橋 長さ弐間より三間半 幅四尺より壱間 自普請に仕り候 拾弐力所、一 土橋 長さ弐間より四間 幅四尺より壱間 これは百姓自普請に仕り候 拾五ヵ所」とある。二十二の板橋と十五の土橋も自分たちで架けて維持する自普請をしていた。
 土橋は、木組の上を土で覆った橋である。土をのせるのは、橋の重量を増して、増水時に橋が流されない、また防火にも役立つためといわれている。
 さらに「一 当村海道筋 烏山森田城下ヨリ宇都宮海道 水戸御領馬頭村ヨリ道場宿河岸へ 右の道筋大破の節は御願申し上げ御普請下し置かれ候」とあり、上高根沢村を通っている街道の修復は、大工事のときは費用がくだされる「御普請」となっていた。
 このように農民には多くの諸役があったが、農民自身が勤める夫役から、夫米・夫銭で納める金納化へと推移が見られた。また、市の堀用水の普請で見られるように、自村の普請から郡中割りへと、公共事業的な動きも見られた。

6図 天明7年の長宮川用水普請人足割帳(上高根沢 高瀬晴基家文書)