7図 延享2年亀梨村検見案内谷津限帳(亀梨 鈴木重良家文書)
領主にとっても、農民にとっても、その年の農作物の作柄と収穫後の年貢率は、最大の関心事であった。秋になると藩の役人は、収穫前に作柄を見て、年貢率(割合)を決めていた。これを検見取法という。
この検見取りについて、宝積寺村の村役人などが天罰起請文を出している。寛延二年(一七四九)に松平忠祗が肥前島原(長崎県)から宇都宮に入封した。その翌年の「寛延三年 松平吉重郎様御代村々検見並諸色掟控」(史料編Ⅱ・六五七頁)がある。入部した松平忠祗の宇都宮藩は、深刻な財政難に陥っていた。そこに寛延三年に家光百回忌法会が催され、宇都宮城が代参大名の宿城となるので、負担がかかった(『栃木県史』通史編5・五八九頁)。
前出の「掟控」によると、寛延三年八月二四日に、宝積寺村の庄屋七右衛門、組頭万右衛門、頭百姓の藤兵衛など十名が氏家村庄屋の五右衛門宅に集められた。代官酒藤作誠より検見の改革について申し渡しがあった。ここで七右衛門たちは起請文を書かせられた。
天罰起請文前書の事
一、庄屋・組頭・頭百姓は、検見を仰せつけられた時は、収穫前でも、全作物のつもりでありのままに検見をするべきこと。
一、親子・兄弟、仲のよい者、悪い者でも、全く依怙贔屓をしない。稲の作柄の上や中の所をみて、平均に坪刈りをする。
尤も、小さな畝は検分にても全ての籾について究められる。虫食いや枯れた稲は分けたり、早稲と晩稲を見極めて、検見する。
一 弱い(小)百姓や強い(大)百姓に尋ねる時は、よくよく吟味してお代官衆にありのままに申し上げること。
一 お代官衆の検見差し引き分で非分があれば、早速申し出るべきこと。後日に申し出た時は、村役人の落度になる。
(中略)
右の条々に背くことがあった時は、日本六十余州の大小の神祇、所の氏神の罰を受け、悪病にかかり、短命にして、子孫が絶える。田畑と耕作共に利益はえられない。家も滅びる。身は貧にして、終りまで富むことはない。罰は未来永劫に受け、浮かばれること有るべからず。よって起請文件の如し。
とある。検見の仕方の後に、検見の条文を守ることを神々に誓わせている。
検見取法では、まず、村役人と本百姓が村内の一筆ごとの作柄を見分して、内見帳と村絵図を作成する。
延享二年(一七四五)の戸田家宇都宮藩領亀梨村の「検見案内谷津限帳」(史料編Ⅱ・二八〇頁)がある。七郎右衛門組の高七十五石余の内、田高三十一石二合九勺分のものである。大正地、大ぬかり、平八内などの地名ごとに、「大正地 一 壱町五畝三歩 本田、内 中田弐反四畝 かり田、同 六反五畝三歩、同 七畝十八歩 畑成り、下田九畝九歩」と等級別の田面積や田の成り立ちが記載されている。田の高別の面積を作成して、九月に郡奉行に提出した。
代官の手代が、小検見と称してこの内見帳(谷津限帳)を参考に、上田・中田・下田・下々田の等級別に数か所の坪刈りを行い、村全体の作柄を推定する。一坪の面積の稲を実際に刈り、籾量を出す。亀梨村の上田一反当たりの石盛りは一石である(「村差出明細書上帳」史料編Ⅱ・四四頁)から、五合摺りとすると、一坪当たり籾で約六合六勺、米にして約三合三勺となる。田の高と坪刈りの実際の比較によって、年貢率(割合)を推定した。
その後、代官が村内を見回り、再度坪刈りを行い、その年の年貢を決めた。この時、稲の作柄だけでなく、村の商品作物の有無や村の地形、街道洽いで農間稼ぎできるかなどの条件をも考慮して年貢を決めたという。
寛文九年(一六六九)前高谷村の年貢割付状である「酉之年免相定事」(史料編Ⅱ・二二九頁)には、「一 高五百三拾四石九斗壱升壱合五勺 内 弐拾三石八斗八升九合 田方酉ノ検見引」とある。検見によって、田の内二十三石八斗八升九合分を年貢対象から引いている。
このように、領主は、農民が生産した収穫物をできるだけ的確に把握して、年貢として、農民の生産余剰を収奪しようと努めていた。
8図 亀梨地内の大溜