そこで、検見に行う坪刈りから見ていく。坪刈りとは、一間(約一、八二メートル)四方の面積、一坪(約三、三平方メートル)の稲を刈って、籾の収穫量を調べることから、この名が付いたといわれている。
小検見は、まず、村役人が、自分の村の田の稲が熟し、坪刈りをして籾のありさまが極められる時期に、郡奉行に注進(報告)する。それを受けて、郡奉行衆(手代など)や改め役人が二手に分かれて、村々を廻る。村々の免分けの所の一カ所を決めて、坪刈りをする。
村々の田の作柄の検分して、「定合」を極めて申し渡す。「定合」より稲のできがよかったら、そのまま合籾を極める。「定合」より不足した時は、「定合」を用いて合籾を極める。(略)何ヵ所も坪刈りし、一村残らず下見がすみ、その結果を検見道引帳にまとめ、その事を役所に注進すること。そこで、役人や代官が出郷いたし、引き方を極める。
右の検見や坪刈りで、村の人手が少ないときは、手を回し、隣郷が話し合い、二・三か村を組合せて行う。村は検見道引帳を出来上がり、改めが終わり次第、検見引請帳を差し出すように心得る。右帳の案分ができたら役人に相渡す。
人手が少なく、坪刈りをできない時は、一坪を刈って、その近くで作柄が同じ所は、坪刈りしなくても、相極めるようする。もっとも検分で計るには、間違いがある。念を入れて相違がないようにする。
右の引畝の勘定は、この秋は、村方が不案内であった。代官が出郷のうえ、引き方勘定を相極めるようにする。
村の稲が熟し次第、早速検見に取りかかるべきだ。もし早霜となれば、免損に及ぶので、手回しいたすべきこと。
とある。
村役人より郡奉行へ小検見の連絡がいく。役所から代官手代が来て検見を行う。検見の時期が、稲の熟する時期に合っているのが望ましい。二つの時期のずれによって、収穫量の把握がむずかしくなる。また坪刈りの手間がかかる。それで、数ケ村を組合せて検見を行った。
作柄の悪い部分の検見引きや坪刈りによって、村全体の収穫量を想定することの困難さを少しでもなくするために、近村との比較を取り入れている。この史料から、年貢率を決める検見の重大性と、領主側の慎重さを読みとることができる。
またこの史料には、検見役人に対する賄いも詳しく記述されている。
村賄いのこと、当地は村々に泊まることができにくい庄屋が多数いるが、その様な村は、検見改めなどしている間も、その村に泊まることができにくい。庄屋などで泊まることができる村へ泊まることもある。逗留の勘定をする。賄い方は、右の改めをうけている村より、百姓どもが持ち寄り、回り持ちに賄いをしていた。右の通り、百姓回り持ちの賄いでは不都合も生じたので、以後は百姓廻り持ちの賄いは止めて、宿は庄屋にする。泊まり村の庄屋・肝煎の諸事、内規、世話の仕方は定めの通り、上役人には一汁一菜、下役人には一汁無菜のお定めの賄い代で、庄屋は賄いをするように。尤も、検見を行う者は夜通しも勤めるので、油や薪が特に必要となる。また水風呂などにも入る。これらの分は村役人がつくる。給仕はその村の庄屋の家内が世話をする。
水風呂のたらい、行灯、たばこの盆などは、大勢が泊まるので、入用が多くなり、村々で用意すると費になる。一通り郡割でこしらえて、届けるようにする。
とある。
検見役人が泊まる場所は庄屋宅が多かった。また検見役人の宿泊や食事の世話の仕方なども決められていた。代官などの上役人には一汁一菜、手代などの下役人には一汁で菜はなしと。これらの検見には村々に多くの手間と費用がかかっていた。
9図 寛延3年松平吉重郎様御代村々検見並諸色掟控(宝積寺 加藤俊一家文書)
10図 寛延3年松平吉重郎様御代村々検見並諸色掟控の検見について(宝積寺 加藤俊一家文書)