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定免法

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 検見取りは、その年の作柄を見て年貢の割合を決めるので、実態にあったものである。しかし、「寛延三年 松平吉重郎様御代村々検見並諸色掟控」で見てきたように、検見が実施されるまで稲の刈り取りができなかったり、検見の時は村役人や村人が付き添ったりして、農作業に支障をきたした。また検見役人への接待や供応などに多くの手間と費用がかかった。そこで農民は、毎年同じ年貢を納める定免法を望んだ。
 定免法について、太宰春台(一六八〇~一七四七)は『経済録』で、次のように述べている。
 
   定免というは、十年、二十年ほどの内にて、上熟、下熟の中をとりて、これを定法として、年々定法のごとく収納するなり、(略)当代定免に勝れる善法なし、視取ははなはだしく民に害あり、子細に代官の秋成を視るを、今の俗に毛見(検見)という、代官の毛見に往くや(略)いろいろの饗応をなし、その上に進物を献じてその歓楽をきわめ、手代等はいうに及ばず、僕従のいたって賤しき者までも、その品に従い、それぞれに金銀を贈る、かくのごとくするその費えいくばくという事を知らず、(略)彼らが心に満足すれば、上熟をも下熟といいて免を低くするなり、これによって里民万事を聞いて代官の悦ぶべき事を計る、代官の毛見に行く、その利はなはだ多し、従者までも数多くの金銀を取る、これみな上の物を盗むなり。
 
 検見より定免法の方が優れている点は、検見の際の役人への饗応費がなくなることと、役人の不正がなくなることの二つを上げている。
 幕府の代官小宮山昌世(?~一七七三)は、享保期の地方巧者といわれ、将軍吉宗の命を受けて作られた『地方問答書』で、その年の収穫量を検見して年貢量を決める検見取り法が、余剰の収奪には、定免法よりすぐれた方法である。検見を十分にできる役人か少ないときには、また役人が不正をするよりは、定免法の方がよいと述べている。
 このような理由で定免法は、享保の改革で将軍吉宗によって、幕領内に取り入れられた。
 天保十年(一八三九)の「関俣村の定免願い」(史料編Ⅱ・三〇一頁)には、
 
   村の人手も少なく、極めて貧しい者が多く、検見が行われては、麦作の仕付けが手遅れになり、いよいよ潰れたり困窮したりして非常に難渋するので、何卒ご慈悲をもって、定免を仰せつけください。
 
と、宇都宮藩領関俣村では、検見による麦作の遅れを懸念して、代官所に定免法を願い出てた。
 小宮山昌世の甥で、幕府勘定方の役人で地方巧者といわれた辻六郎左衛門(一六五二~一七三八)は、『地方要集録』で、定免制は富農に利益をもたらすが、小農には不利益と考えた。なぜなら、不作の時、小農は年貢を納める蓄積がなく、たとえ年貢を富農層が負担してくれても、次の年の稲作への再生産に必要な諸経費までは負担してもらえないからと、述べている。
 一橋領平田村の定免法は、現存の年貢割付状(平田 加藤辰夫家文書)で見るかぎりでは、宝暦三年(一七五三)から同七年まで、安永元年(一七七二)から同五年まで、文化三年(一八〇六)から同七年までの五年間の三回あった。
 宝暦三年から七年までの定免法については、宝暦五年(一七五五)の年貢割付状(史料編Ⅱ・二五一頁)の末尾に、「右は、去る酉(宝暦三年)より丑(同七年)まで、五か年定免に相極め候の所、当亥より見取りこれあるに付き」とあり、定免であった。しかし、五年亥は検見取りをした。平田村の年貢割付状の中では、宝暦五年の取り米が二百九十九石四斗五升、取り永が三十三貫三百七十七文と最高であった。署名人に板野祖右衛門とあり、一橋領であった。五か年定免の額は分からないが、この年の奥羽地方大飢饉で領主側が検見を行ったものと考えられる。
 安永元年から五年までの定免については、安永二年(一七七三)の年貢割付状(平田 加藤辰夫家文書)の末尾に「右は、辰(安永元年)より申(同五年)まで五か年定免の処。当巳年(同二年)品々御改めに付き、御取箇書面の通、相究めの間」とある。定免であったが、年貢に変更があった。取り米が二百十一石五斗四升四合、取り永が二十三貫七百九十三文と低かった。この時も、署名人は奥田三右衛門とあり、一橋領であった。
 文化三年から同七年までの五年までの定免については、文化七年(一八一〇)の年貢割付状(平田 加藤辰夫家文書)の末尾に「右は、寅(文化三年)より午(同七年)まで五ヶ年定免の内、当午(同七年)畑方引きこれありに付き、御取箇書面の通」とある。畑に「当午より申まで拾五年ヶ年取下」とあり、災害により復旧の見込みか立たないで、荒地になることを認めている。また、田のところにも、「亥より申まで拾ヶ年手余り荒地引」とある。耕作する人もなく、荒れ地として放置された田が至る所に出てきていた。そのため、定免取りのところを破免にして、年貢を割付けした。署名人は山下為之助とあり、一橋領であった。
 定免法の趣旨は検見時のロスを少なくすることにあった。平田村の定免法は、三回とも、その領主が一橋家で江戸在住であり、宇都宮領ではなかった。その点、定免法の趣旨は生かされていたと考える。

11図 花岡 岡本 右家