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元和・寛文期の年貢

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 江戸時代の年貢率は五公五民がよく知られている。五公五民とは、収穫の五割を領主が年貢として取り、残り五割を農民が手元に残したといわれている。高根沢では領主側がどのくらい収奪したのかを見ていきたい。
 高根沢の大谷村に、本多正純が小山より宇都宮城に移封してきた元和五年(一六一九)の十一月の年貢割付状(史料編Ⅱ・二二二頁)がある。秋の検見の後、年貢の割合について年貢割付状が村に送られて来た。
 それによると、大谷村の村高は四百五石八斗五升八合であった。年貢は、「一 取米百拾壱石六斗壱升壱合 但弐ツ七分五、一 米拾弐石六斗五升 桝之出目壱斗二付壱合」とあるから、年貢率は村高の二十七・五パーセントである。これに、「桝之出目」の付加税が、一パーセントがついた。この外、「一 永楽三百文 野銭」が付いていた。
 元和八年に本多正純が出羽由利(現秋田県)に配流され、下総古河より奥平忠昌が宇都宮に戻ってきた。第二次奥平宇都宮領となった平田村寛文二年(一六六二)の年貢割付状(史料編Ⅱ・二四三頁)では、「一 田方 三ツ四分五厘、一 畠方 三ツ五分」と、「但籾壱石二口籾三升、代壱貫文ニ目銭四拾文、付田畠掛物共ニ」とある。年貢率は、田は、三十四・五パーセント、畑は、三十五パーセントで、付加税として、口籾が三パーセント、目銭が四パーセントがかかった。また「田畠掛物」もあった。
 前高谷村の寛文五年の年貢割付状(史料編Ⅱ・二二八頁)には、「一 田方 四ツ七分五厘、一 畑方 三ツ八分」とある。田は、四十七・五パーセント、畑は、三十八パーセントと、年貢率が上昇している。付加税の口籾や目銭、田畠掛物は同じであった。
 元和・寛文期は、大谷村・平田村・前高谷・中阿久津村の四か村は宇都宮領であった。次頁1表「元和・寛文期の年貢割合」からも、この四か村の年貢は、元和五年(一六一九)から寛文期にかけて、五公五民前後に年貢率が増えていることがわかる。

12図 平田 加藤辰夫家


13図 平田村の寛文2年の年貢割付状(平田 加藤辰夫家文書)