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松平忠弘の寛文・延宝期

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1表 元和・寛文期の年貢免(年貢率)
大谷村平田村前高谷村中阿久津村
元和 5年(1619)27.5
寛文 2年(1662)34.535
寛文 5年(1665)47.538
寛文 7年(1667)54.549.5
寛文 9年(1669)4840
寛文11年(1671)46.342.555.757.5

注.年貢率をパーセントで表示した。
注.平田村の寛文11年は本免を表示した。
 
 領主も農民も、戦国時代に培われた土木技術や鍛冶技術などを治水工事や新田開発に注いだ。また、農業生産の技術開発の向上に努めた。こうして江戸時代前半は、農業生産量が飛躍的に増大した。領主はその増大した生産量を検地や検見によって確実に把握して、年貢として収奪していこうとした。
 寛文八年(一六七八)に奥平昌能が出羽山形に移封し、松平(奥平)忠弘が山形より宇都宮に来た。松平忠弘は、昌能の父忠昌といとこである。
 前高谷村の寛文九年(一六六九)の年貢割付状(史料編Ⅱ・二二九頁)と寛文五年の年貢割付状(史料編Ⅱ・二二八頁)とを比べると、年貢率は、田のが四十七・五から四十八パーセントと〇・五パーセント、畑が三十八から四十パーセントと二パーセントと、少しの上昇が見られる。
 平田村の寛文十一年(一六七一)の年貢割付状(史料編Ⅱ・二四四頁)には、三つの特徴が認められる。
 一つ目は、検見引きが認められたことである。村高六百拾六石五斗七升六合の内、検見によって、今年から田の永荒として一石六斗二升五合、畑の永荒れとして一石一斗七升が引かれた。『地方凡例録』によれば、永荒場引とは、「大風雨洪水につき、堤切れ、また、岸崩れ、田畑屋敷とも大石押入れ、大沼、大池になり、石、砂利、深砂入り、或いは、大地震等にて山崩れ、山汐、洪水、津浪等ありて、地所変地し、人力を以ては、とても起返しがたき分、永荒の名目にて高内引に致し置くことなり」とある。
 今年だけの検見引きとして、田の本免分十四石八斗三升四合と田の下ヶ免分四石四斗八升一合がある。これらの引高の合計は二十二石一升であった。諸役は、村高に課せられるので、損耗が激しいときは、その分を検見で引いてもらう。
 このように、検見引きが多いのは、検地で耕地と認められた田や畑が、自然災害で荒れ地になり、それを領主側が認めたものである。また、農民側に認めさせただけの力があったとも考えられる。
 二つ目は、本免と下ケ免の二つの表記がある。「四ツ六分三リン 三百四拾壱石五斗三升八合 田方本免、三ツ六分七リン 百三石七斗三升壱合 田方下ヶ免、四ツ弐分五リン 百五石弐斗六升八合 畑方本免、三ツ五分五リン 四拾四石弐升九合 畑方下ヶ免」とある。全体の約二十五パーセントが下ヶ免となっていた。
 これは、寛文八年に入封した松平忠弘が、奥平氏が行っていた地方知行をやめて、領主から家臣に米や金を渡す俸禄制にしたといわれている。その時、家臣が地方地行をしていた耕地の部分を下ヶ免にしたと思われる(『上河内村史 上巻』四五四頁)。また、貞享三年(一六八六)の深津村(現鹿沼市)の「四石役願書」(『栃木県史』史料編近世一・二一五頁)によると、寛文四年に地方知行が廃止され、大名の蔵入地・「上り地」になった時に、四石役が設けられたという。
 三つ目は、「一 高三拾石弐升九合五勺 当亥より納ル 新田」とあり、この年、寛文十一年に新田畑から年貢を取ったことである。高根沢に現存している検地帳も寛文十一年から、「新田畑検地帳」となっている。
 関東地方は畑作地が多く、幕府や大名、畑年貢には、「四ツ弐分五リン百五石弐斗六升八合 畑方本免、取米四拾四石七斗三升九合、此永拾四貫九百拾三文」と、永を使った。公定換算は、永楽銭一貫文=金一両=銭四貫文とした。また、「取米百弐石六斗三合五勺五才 此永三拾四貫弐百拾壱文壱分八リン」から、三石=永一貫の計算になっている。
 平田村の寛文十一年(一六七一)の年貢割付状から、松平忠弘は、検見引きを多く認めながらも、新田畑を確実に把握し、年貢の上昇を図ったといえる。
 松平忠弘・宇都宮領では、寛文十一年(一六七一)と同じく延宝三年(一六七五)も、田と畑の本免と下免の免割合は、約三パーセントずつ上昇している。一方、新田の本免が二十三・二から三十三・五パーセント、下ヶ免が十九・四から二十八・五パーセントと、十パーセント前後も大幅に増えている。新畑の本免も二十一・二から二十七・五パーセント、下ヶ免が十七・八から二十三パーセントと、六パーセントも増えている。
 延宝六年の田の本免は、四十九から五十五パーセントと六パーセントも増えた。田の下ヶ免やその他の免は少しの増加であった。しかし、新田部分は高三十石二升九合五勺から三十九石三斗六升九合五勺と九石三斗四升も増加していた。また、本免と下ヶ免を比べてみると、下ヶ免は時代と共に次第に本免に近づいている。
 寛文十一年と延宝三年、同六年を比べると、引き高が二十二石一升、十二石八斗五合、七石四斗四升五合と少なくなっている。よって、田の年貢である取り米が、二十三石三斗五升一合、二百二十石三斗五升四合、二百三十二石三斗五升一合と増加した。畑の取り米部分も六十三石二斗一升四合、六十八石五斗三升八合、七十石四斗二升と増加した。畑は永納めなので、二十一貫七十一文、二十二貫八百四十六文、二十三貫四百七十四文となった。
 松平忠弘は、農民の生産意欲と生産技術の発達の成果である生産量の増加と新田の開発の把握を図ろうと、全ての免(年貢率)を引き上げたのである。
 
2表 平田村の年貢割合(年貢率)
年号西暦新田新畑引き高
本免下ヶ免本免下ヶ免本免下ヶ免本免下ヶ免
寛文 2166234.535
寛文11167146.338.723.219.442.535.521.217.822.01
延宝 316754941.533.528.545.538.527.52312.805
延宝 616785543342946.539.528237.455
元禄 4169151.544363144.733.730259.2305
元禄 6169353.54638.533.544.737.730258.2305
元禄 9169650.54338.533.543.236.2302528.4795
元禄13170052.54540.535.538.543.236.2302517.7715
正徳 4171455.5484438402545383025283012.7705
正徳 51715不明不明44384025453830252830不明
享保 217175648443840254538302528307.8875
享保 4171956484538422725474030252830308.8875
享保101726564845384429254740302528303012.839
享保1117275650不明不明不明29254940不明不明不明303010.341
享保1217285650不明不明442925494030252830307.3875
寛保 31743565047384632254740302528303013.241

注.年貢率をパーセントで表示した。
注.各年度年貢割付状は、平田 加藤辰夫家文書による。

14図 平田村寛文11年の年貢割付状(平田 加藤辰夫家文書)