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元禄・享保期の増徴

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3表 平田村の取米と取永
年  号西暦取米 取永
石 斗升合 貫銭
寛文11年1671 230. 3 5 1 21.071
延宝 3年1675 220. 3 5 4 22.846
延宝 6年1678 232. 3 5 1 23.474
元禄 4年1691 237. 7 6 3 22.609
元禄 6年1693 248. 1 4 7 22.609
元禄 9年1696 224. 4 7 2 21.863
元禄13年1700 241. 6 7 21.863
正徳 4年1714 269. 6 7 6 22.792
正徳 5年1715 273. 1 6 22.792
享保 2年1717 274. 1 5 7 22.792
享保 4年1719 274. 9 6 1 23.793
享保10年1726 276. 9 5 7 23.793
享保11年1727 277. 5 5 6 24.495
享保12年1728 279. 2 3 6 24.495
寛保 3年1743 276. 9 5 7 23.793
宝暦 2年1752 297. 9 5 7 31.778
宝暦 5年1755 299. 4 5 33.377
安永 2年1773 211. 5 4 4 23.793
文化 1年1804 237. 7 5 5 29.6851
文化 7年1810 230. 3 9 4 22.625
文政 1年1818 188. 8 7 7 29.6851
文政 5年1822 192. 5 9 7 29.6851
文政 7年1824 191. 4 0 9 29.6851
文政 8年1825 59. 4 7 1 29.7066
天保 2年1831 153. 8 2 4 29.766
天保 4年1833 41. 2 2 7 29.766
天保 6年1835 66. 2 2 3 29.7119
天保 7年1836 18. 4 6 1 29.7119
天保 8年1837 45. 6 5 3 29.7119
天保10年1839 138. 5 5 4 29.7119
天保11年1840 89. 9 1 4 29.7119
天保12年1841 130. 9 9 6 29.7119

注.各年度年貢割付状は、平田 加藤辰夫家文書による。
 
 十七世紀後半には五代将軍綱吉が治世を行い、江戸幕府の政治は安定した。農業の発達に応じて、商品流通も大坂を中心に全国の流通網ができつつあった。商人の経済を背景に元禄文化が生まれた。
 松平忠弘の後、天和元年(一六八一)に本多忠平が陸奥白河から宇都宮に入封した。次いで貞享二年(一六八五)に奥平昌章が出羽山形より九万石で入封した。平田の加藤辰夫家に、奥平宇都宮領の元禄四年(一六九一)(史料編Ⅱ・二四六頁)、同六年、同九年の年貢割付状がある。
 松平忠弘下の延宝六年(一六七八)と奥平昌章下の元禄四年(一六九一)の年貢割付状を比べると、田と畑の本免の割合が下がって、新田と新畑の年貢率が二パーセント上がっている(前項の「2表 平田村年貢割合」を参照)。取り米は五石四斗一升二合増えているが、取り永は八百六十五文減っている(「3表 平田村取り米と取り永」を参照)。
 奥平宇都宮領の新田の割合が元禄六年から三十八・五と三十三・五パーセントと、新畑の割合が元禄四年から三十と二十五パーセントと固定に入った。元禄九年は、引き高二十八石四斗七升九合五勺の内、二十四石九斗が田の検見引であった。奥平宇都宮領は、松平忠弘の時をやや下回る年貢徴収になった。
 元禄十年(一六九七)に、阿部正邦が丹後(現京都府)宮津から十万石で入封した。阿部正邦下の元禄十三年の年貢割付状を奥平昌成の元禄九年と比べると、田の割合が本免と下ヶ免、新田の本免と下ヶ免の四つが共に、二十二パーセント上がっている。また、「一 高四拾壱石七斗壱合五勺 新田」の後に、「外 一 田高弐石九斗七升三合 寅之書上、取米壱石壱斗四升五合 三ッ八分五厘」とある。元禄十一年の戊寅から年貢として徴収された。しかし、畑の免は元禄九年と同じ割合となっている。
 宝永七年(一七一〇)に、戸田忠真が越後(現新潟県)高田より六万七千八百石で入封した。戸田山城守忠真は、正徳四年(一七一四)九月から享保十四年(一七二九)十月まで、十五年間老中であった。彼は享保元年(一七一六)から八代将軍吉宗の幕閣にあり、吉宗の政策の影響を強く受けて藩政を行ったと思われる。
 正徳四年の年貢割付状(史料編Ⅱ・二四八頁)を阿部正邦の元禄十三年(一七〇〇)のそれと比べると、田の本免が五十五・五と下ヶ免が四十八パーセントとそれぞれ三パーセントずつ増加し、新田の本免が四十四パーセントと三・五パーセント、下ヶ免が三十八パーセントと二・五パーセント、「寅書上亥改」が四十パーセントと一・五パーセントと、全ての割合が増加した。
 また、畑の本免は四十五パーセント、下ヶ免が三十八パーセントと共に一・八パーセントの増であった。しかし、新畑の本免が三十、下ヶ免が二十五パーセントと元禄十三年と同じ割合であった。
 「寅書上亥改」は、田高二石九斗七升三合から、田高十五石四斗七升四合と畑高一斗二升六合となり、四十パーセントと二十八パーセントの割合となった。「寅書上亥改」とは元禄十一年(一六九八)戊寅年に新田年貢として徴収され、宝永四年(一七〇七)丁亥年に改めて新田検地があった新田畑であるということになる。
 「去巳改新田」も田高二十三石八斗七升三合で二十五パーセント、畑高二斗で三十パーセントの割合となった。去巳とは正徳三年の癸巳年のことである。
 その後も、享保四年(一七一九)には、「去戌改新田」として、田高一石三斗四升五合、二十五パーセント、畑高五升九合、三十パーセントの年貢率となっている。また、「寅書上亥改」の新田も高二石九斗七升三合から十五石六斗と大幅に増えた。
 戸田忠真宇都宮領は、享保十年・十一年・十二年と、田の本免五十六パーセント、下ヶ免五十パーセント、畑の本免四十九パーセント、下ヶ免四十パーセントと最高の年貢率を目指した。また、農民の開発した新田畑を確実に把握することに努めた。老中戸田忠真は、享保の改革の忠実な実行者であったといえよう。