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取り米・永の最大と最小

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 十八世紀に入ると、農業技術はますます発展した。全国の田畑面積は、江戸時代始めの百六十四万町歩から、二百九十七万町歩へと八割も増加した。
 寛延二年(一七四九)に戸田忠盈が肥前(現長崎県)島原に行き、松平(深溝)忠祗が島原から六万五千九百石で宇都宮に入封した。しかし、松平宇都宮領は財政が悪化していた。「寛延三年 松平吉重郎様御代村々検見並諸色掟控」(史料編Ⅱ・六五七頁)の触書の最後に「右の通りに候えども、籾は残らず五合摺りに仰せ付けられ直り候、出目と申す、役高へは三勺三才位の積もり相納め候、以上」と追記がある。これは、宝暦三年(一七五三)に上納米は六合摺りを五合摺りに改めた際に、「出目」という付加米が、役高に三勺三才の割で賦課されたという(『栃木県史』通史編5・五九四頁)。勺は合の十分の一、才は勺の十分の一の単位である。明和元年(一七六四)に籾摺騒動といわれる一揆が起きる。
 一橋領平田村の宝暦二年(一七五一)年貢割付状(平田 加藤辰夫家文書)では、村高が六百十六石五斗七升六合から六百十六石五斗九升三合五勺と一升七合五勺の微増があった。取り米は二百九十七石九斗五升七合、取り永は三十一貫七百九十八文と表「平田村取り米と取り永」の中で二番目に高かった。
 外に、
 
  取合 米弐百九拾七石九斗五升七合
     永三拾壱貫七百七拾八文
  一 米八石五斗九合    口米
  一 永九百五拾三文三分  口永
  一 米拾三石六斗四升六合 四石役
  一 永六百九拾五文九分  田方掛銭
  一 永五百八拾文     夫役
  一 鐚壱貫九百弐拾六文  伝馬銭
  一 萱場壱町四反六畝四歩 弐ヶ所
  一 葦沼壱反四畝五歩   弐ヶ所
 
とある。このように、付加税や諸役が代納米・永で記載されていた。この時は、「永田十左衛門、篠田孫左衛門」と署名があるように、一橋領であった。一橋家は、御三卿の一つである。納合は、米三百二十石一斗一升二合、永三十四貫七文二分、鐚一貫九百二十六文となった。
 宝暦五年年貢割付状(史料編Ⅱ・二五一頁)は、取り米は二百九十九石四斗五升、取り永は三十三貫三百七十七文、納合は、米三百二十石七升七合、永三十五貫九百四十六文五分、鐚一貫九百二十六文となった。この時の署名は、板野祖右衛門であったから、同じく一橋領であった。「3表平田村取り米と取り永」の中では一番高かった。
 文化元年(一八〇四)の年貢割付状(平田 加藤辰夫家文書)では、村高は従来の新田高も合わせた六百九十九石三斗七升二合であった。取り米と取り永が、一番低かったのは、天領となっていた天保七年(一八三六)で、天保の飢饉の最中であったが、取り米は十八石四斗六升一合、永は二十九貫七百十一文九分であった(史料編Ⅱ・二六七頁)。
 年貢割付状には、村高は六百九十九石三斗七升二合で、面積が百七十五町七反六畝九歩であった。この内、田は八十七町四反五畝十五歩、畑が八十八町三反二十四歩であった。平成四年版『農政課集落懇談会資料』によると、平田(東高谷、上太田、中郷)の田は約三百十六町歩、畑が二十四町歩、山林が六町歩である。江戸時代に耕地の五十二パーセントができていたことになる。
 天保七年は、「内 高三百七拾三石五斗三升八合 去未より続き並びに、当申風損水腐仕りに付き荒れ青立ち不作皆無引き、此の反別六拾五町六反九畝二十六歩」とある。天保六年未より、大風や水の害により稲が育たなかったり、稲が立ち枯れ同様になって穂が成熟しなかったりして、同七年申は、不作や収穫が全くない面積が、六十五町六反九畝二十六歩あった。百七十五町七反六畝九歩の三十七パーセントであった。『地方凡例録』(大石慎三郎校訂、上巻一四九頁)によれば、坪刈りで、「二、三合ある分は、皆無に書き出すことの通法なり、勿論二合までは、毛附にて皆無にいたす定法」とある。
 上畑のところに、
 
  高弐拾石壱斗九升六合
  上畑三町三反六畝拾八歩 六
     内
   弐町五反四畝三歩 反永百文
   壱反弐畝廿七歩 酉より亥迄拾五ヶ年取下
             小木立反永拾弐文
   三反壱畝六歩  右同断
             芝地反永六文
   三反八畝拾弐歩 戌より未迄拾ヶ年季明当申壱ヶ年
             荒地取下反永四拾文
 
とある。
 上畑は反当たり六斗の割合だから、二十石一斗九升六合となる。三石が永一貫だから、永六貫七百三十二文となる。しかし、二町五反四畝三歩は、反当たり永百文で、二貫五百四十一文となる。また、一反二畝二十七歩は、文政八年(一八二五)酉より天保十年(一八三九)亥までの十五か年取下げ(土地の等級を下げる)・小木立ちの土地になり、反当たり永十二文で、永十五文四分五厘となる。次に、三反一畝六歩は、上と同じで芝地となり、反当たり永六文で、永十八文七分二厘となる。最後に、三反八畝十二歩は、文政九年戌より天保六年未までの十年の年期が終わったが、当年申も荒地なので取下げ、反当たり四十文で、永百五十三文六分となる。
 この四つを小計すると、永二貫七百二十七文八分となり、永六貫七百三十二文の約四十一パーセントにしかならない。中畑・下畑・下々畑も同様に取下げになっている。付加税の御伝馬宿入用・六尺給米も、「田高五分以上損毛当中壱ケ年 免除」とある。
 こういう年が、文政八年、天保四年、六年、七年、八年、十一年とあったことが年貢割付状から見つけられる。幕府もこの天保の飢饉などの不作には手の施しようがなかった。

15図 米どころ高根沢の中心部平田付近