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年貢米納め

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16図 前高谷村皆済目録(花岡 鈴木 徳家文書)

 「安永四年(一七七五)石末村明細村差出帳」(史料編Ⅱ・九頁)によると、「八十八夜前後(五月一、二日頃)に苗代づくりが始まる。田植えは五月中前後始まる。田一反歩の広さに一斗の籾種を蒔いた。肥は一反歩に干鰯で一斗二升位を入れる。畑の方は春土用過ぎより追々蒔き始める」とある。
 夏には、早稲の中耕、数回の草取りがある。台風の心配をしつつ、秋を迎える。秋になると検見が行われる。
 十一月に役所から年貢割付状が来ると上納米の準備に入る。まず、名主・組頭・百姓惣代の村役人は、名寄帳(史料編Ⅱ・二一四頁)を作成する。検地帳の作成後、質入れなどによって、田畑屋敷の所持の移動がおきる。各自の田畑屋敷の高を確かめるために名寄帳を作成する。その名寄帳を元に割り振りを行う。その割り振りでできたのが、「御年貢勘定覚帳」(史料編Ⅱ・二九八頁)である。田高の年貢以外の、給米上り・賄米・御供米などもいっしょに集められていた。
 また「運賃検見割覚帳」(史料編Ⅱ・三〇〇頁)には、運賃・検見割・荷米なども集められた。文政三年の上高根沢村の場合、検見の賄い費用は高一石に付き一升七合二勺、年貢米の運賃は一俵に付き五升二合七勺と、高割りであった。しかし、給米は一軒に一斗一升一合四勺、荷米も一軒に付き七升三合と、一軒に等しく割り当てる面割りであった。
 御年貢米は、「寛延二年(一七四九)の上高根沢村差出明細帳」(史料編Ⅱ・二〇頁)に、「御年貢米は津出し 板戸河岸へ陸路、道法一里十町付出し、江戸迄川法五十八里積み廻し申す候、右河岸より江戸迄御米百俵に付き御運賃五俵九分宛下され候」とある。村人が御年貢米を板戸河岸に運び、板戸河岸から江戸までは、百俵につき五俵九分を船運賃分としてもらっていた。
 「寛延三年 松平吉重郎様御代村々検見並諸色掟控」(史料編Ⅱ・六五七頁)の後半に「納方之事」と、納米の仕方が記載されている。現代語にすれば、
 
   一 村々が米俵籾俵を拵える時は、俵印は前御代の通り、内札上札共に念を入れて記すこと。
   一 米代には、米見足軽が郷中へまかり出、村役人一同に取立をも世話いたし、米籾の吟味を相受けたけれども、今年の秋より、米見の手代は郷中へまかり出ず、村役人が引き請け取立、郷蔵へ納め候はば、日限り相違無き様に付け送りすること。
   一 御家中御扶持、物成り、渡し米、年内納めの内にて、相渡し候間、南館御蔵が空き次第、村方より相納め候様に申し付けること。
   一 御用捨籾、役籾、町方納籾、五合摺り籾納相なり候間、十一月中、村の郷蔵へ取立置く、代官並びに手代が出郷の上、籾を吟味致し、悪しき籾は、納め替え候様に仕り候、当年より籾納めの分、籾にて御蔵へ納めるべきこと。
   一 畑方の納めは、大豆、油荏、稗、右の三品は、前々の通り相違なく相納候、右三品共に、今年より御蔵納め候こと。
   一 村々より御蔵納めの御年貢米、悪しき米を持ち来たり候ては、蔵前にて米吟味がある。村戻しになっては、下方の難儀があるので、村に戻すことがないように致すべく候。
   一 年内納めの分は、御蔵明き次第、米滞りなき様に致し、南館御蔵が差し支え候はば、郷蔵へ相納め、村預かり致し候分、代官手代がまかり出て、吟味し封印致し置き候。
   一 御用米の儀は、年内中に南館へ相納め候様に仕るべく候。
   一 米籾雑穀廻の儀、百俵に二俵づつ籤入廻し致し候こと、尤も、俵は籖入れ候儀は、手代が世話致し候こと。
   右の通り、諸事念を入れるべく候こと。
 
とある。
 納米の俵には、納め主の名札が表と中にあった。米の検査には、村役人の外、代官手代が立ち会っていた。宇都宮領では、田川沿いにあった南館蔵に納めていた。村には郷蔵があり、そこに年貢米を保管していた。扶持米の外、商品になる年貢米は、厳しく吟味され上納されていたことがわかる。
 畑方の大豆・油荏・藁の三品は、物納であった。享保十三年(一七二八)の「亀梨村 田畑年貢通」(史料編Ⅱ・二九七頁)によれば、七月・九月・十月・十一月の四回に分けて納めていた。田と違い、畑は二、三毛作なので、畑方の取り永は、固定に近い村が多かった。また、畑の年貢は金納であった。役所から皆済目録(史料編Ⅱ・二九〇頁)が来て、一年の終わりとなった。農作業の事始めの初午まで、しばしの休みとなる。それまでの間、男は屋内で縄編みや俵づくりなどに、女は糸づくりや機織りに精を出していた。