ビューア該当ページ

初期の用水開発

668 ~ 670 / 899ページ

17図 高根沢の地形と用水(現在)

 平地林や平地の秣場が多い高根沢町域では、早くから湧水や自然の沼地の水を引いて稲作栽培が行われていた。幕藩体制は経済の基礎を農業、中でも稲作に置いていたため、その生産力増加に必要な新田開発と潅漑施設の整備はもっとも重視された。それに伴う用水の配分も、農民にとっては重大な関心事であった。
 水田耕作に不可欠な水を保持するには、用水施設の整備が求められる。河川を利用するにしても、溜池の水を利用するにしても、水を水田に取り入れるためには、用水路を開削しなければならない。用水がなければ新田開発はできないし、水田も維持できない。しかし、それを独力で持てるほど資力のある農民は一人もいない。村全体で共同の用水施設を持つのが一般的であり、その施設の維持管理に必要な多くの費用と膨大な労働力は村全体で負担していた。
 十七世紀半ばになると、治水利水のための土木工事が行われるようになり、村域を越えた大規模な用水の開削が、各地で進められた。この結果、流域の村々では用水の恩恵を受けるとともに、多くの新田が開発された。しかし、十七世紀を通して発達した用水経路の詳細を、史料から見ることは難しい。
 また、用水の配分は、近世村落の村を越えた関係を成立させる条件であった。だが、村を越えた関係に矛盾が生じると、村落間に水の配分をめぐる争論が起こり、容易に解決されないのが常であった。いわゆる用水争論である。上流域の村々は用水によって水田を十分潅漑できるが、下流域の村々は水不足に悩まされ、播種も田植えも遅れがちであった。その危機感が、用水争論の原因となったのである。これらの用水争論は、近隣の村から籌策人(扱い人)が仲裁に入り、両村の妥結条件を明記した済口議定(証文)を作成して終結している。
 高根沢町域には、宇都宮藩の山崎半蔵・奥平織部らの指揮により、十年余りの歳月をかけて完成した市之堀用水をはじめ、加波沢用水・井亀沼用水・冷子川用水・五行川用水・井沼川用水・新堀その他の用水がある。いずれの用水でも争論はあったが、その中の数例を取り上げ、その経過をみることにする。

18図 五行川(太田地内)