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加波沢用水の争論

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 上高根沢村を通過する「西根用水」のうち、「加波沢用水」の争論は、寛政元年(一七八九)五月に発生している。この争論の顚末は、「西根用水加波沢水論一件日記」(史料編Ⅱ・四二三頁)として記録されている。これによると、「五月一日に、阿久津半之助(向戸)組の農民六名が、加波沢から孫六橋までの用水路三百九十五間のところに、新堀を掘り通した」ことが発端となった。加波沢用水路から取水するために、幅四尺余の新堀を二十五間余にわたって掘り、しかもその間に生えていた雑木や、目通二尺(約六十センチ)ほどもある立木をすべて切り倒してしまった。これに対し、宇津権右衛門(西根)組が半之助(向戸)組へ、事の次第について返答されたいと申し入れた。向戸組の返答は「我組の者どもは、新堀など掘っていない」ということであったが、翌日には「加波沢用水路は向戸組の用水路であるから、こちらの勝手である」と、矛盾した返答を寄せている。そこで、西根組ではその日から番水のため二名ずつ割り当てている。西根組は向戸組の新堀を認めず、新堀の取水口を埋め戻す、向戸組の者たちは取水口を掘り直す、このようなことが一か月余も続いた。
 らちが明かないので、西根組の農民は名主権右衛門へ願書(史料編Ⅱ・四二七頁)を出している。その中で「西根組で毎年修復していた加波沢用水路の土手に、今年になって向戸組の者が勝手に新堀を掘り、加波沢用水路は向戸組のもの」と言っている向戸組の主張の背景を、「向戸組では水車七軒をもち、用水を大量に使用している」からとみなし、「水車全部を取り除けば、西根組の水田も潤う」のでそのように計らってほしいと主張している。この願いを受けて、現場での取調べを記した吟味書(史料編Ⅱ・四二八頁)が残っている。
 西根組と向戸組の用水争論は未解決のまま年を越している。翌二年二月に西根組では一橋領領知方役所へ訴え出たが、内済するよう指示されている。西根組の権右衛門と向戸組の半之助で「熟談」し、同年十月、「用水争論」が解決したことを領知方役所へ届け出ている。
 翌三年四月「がば沢論所普請一件、宇津氏控」(史料編Ⅱ・四三五頁)によると、両組の名主が立会いの上で、加波沢用水分水口を次のように定めて内済した。
 
  字石堰西根用水上ヶ口 井路幅 八尺余
  同所次之分水口    同   二尺程
  同所次分水口     同   二尺程
  字がば沢上分水口   同   一尺五寸程
  同所分水口      同   四尺五寸程
  同所次分水口     同   三尺程
  字西がば沢      同   三尺程
 
 分水口の幅を相互に確認した後、同月に「済口証文」(史料編Ⅱ・四三七頁)を取り交わし、解決したのである。この内済は、上高根沢村の淨蓮寺、曲畑村(現南那須町)の佐藤亀右衛門、大谷高根沢村(現芳賀町)名主源右衛門、下高根沢村(現芳賀町)名主重蔵の四名が仲裁したものである。