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冷子川用水の争論

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 平田村内の冷子川用水新堀は、宝永三年(一七〇六)春、宇都宮藩主阿部対馬守の時代に、人足千三百人をもって掘られたものである。時の普請奉行は福田源兵衛である(史料編Ⅱ・四四〇頁)。
 冷子川用水にかかわりのある村は、平田村・関俣村・伏久村・太田村の四か村である。寛延元年(一七四八)に平田村内の用水路に土砂が流れ込み、葭・菰草などが生い繁り、流れが滞ったので、伏久村と出入りとなった。この出入りは、上阿久津村の久右衛門、氏家村の六右衛門、上柏崎村の銀右衛門、栗ケ嶋村の九兵衛の四名が仲裁人となって解決した。争点の堀浚いは、村相互の連絡を取り合い、関俣村と伏久村の人足をもって実施すると決められた。
 弘化二年(一八四五)六月の「差上申済口証文之事」(史料編Ⅱ・四三九頁)に出てくる争いは、「平田村字下ノ沢の田への用水は、これまで冷子川用水から掛け樋を用いて取水していたのに、新堀と新堰を造り取水するようにした」ので、太田村で取水できなくなったことから生じたものである。太田村では、そのために水不足となると訴え、平田村では古堀・古堰があったところを修復したまでであると主張した。そこで、上柏崎村名主の六右衛門と栗ヶ嶋村組頭の太郎平の二名が仲裁人となり、下の沢に堰を作れば太田村が水に苦しむのは「眼前の義に付」と堰の補修は止めさせ、古い用水の末流から掛樋で用水を取るよう調停したのである。

19図 冷子川(花岡地内)