寺渡戸村・上高根沢村・栗ヶ嶋村・関俣村などの村では、井亀沼から引水した用水を利用していた。寛延元年(一七四八)八月に上高根沢村から関俣村までの用水路の堀浚いを実施したところ、上高根沢村はこれまでの通り用水路にそって堀浚いをしたのに対し、関俣村は沼のように用水路を掘り広げてしまったので、用水が平常に流れず、出入りとなった。そこで上高根沢村の久右衛門、氏家村の六右衛門、上柏崎村の銀右衛門、栗ヶ嶋村の九兵衛ら四名が仲裁に入り、用水路と関俣村が沼のように広げた場所は、今後、関俣村立会いの下、上高根沢村が堀浚いをすることに定めて解決している(史料編Ⅱ・四四二頁)。
また、弘化四年(一八四七)四月には、井亀沼から獺沼までの定例の川浚いのとき、寺渡戸村が川筋の獺沼の所を堰止めてしまったのが原因で出入りに及んでいる(史料編Ⅱ・四四一頁)。水下の栗ヶ嶋村と上高根沢村との間では、今後は相談の上、川浚いをすることが決められている。この約百年の間にも数多くの水争いがあったと想像されるが、史料不足のためわかっていない。