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井沼川用水及びその他の諸用水

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 井沼川は、地内の湧水と市之堀用水路からの落水が合流してできた小河川である。この井沼川の流水を利用している上柏崎村と平田村の間で起った用水争論が、嘉永六年(一八五三)三月の「乍恐以書附奉願上候」(史料編Ⅱ・四四五頁)という文書に見える。それによると、「宇都宮藩領時代、上柏崎村外十二か村で堀組を作り、明暦年中から市之堀用水普請の諸入用や人足を負担してきたが、一橋領になって以降は、市之堀落水井沼川用水を平田村地内から引水していた」ところ、「同年土室村も文挟村地内の井沼川から引水することに相談がまとまり、堀浚いは先規の通り平田村まで」と決まった。ところが平田村で「村内の水揚口の場所を締め切る」というので、上柏崎村は「水不足に悩み、出入りにもなりかねないので、平田村の堰の上流へ堰を作りたい」と、地頭所役人へ見分を願い出ているのである。
 新堀用水の出入りは、安永五年(一七七六)三月の「馬喰内鶉野口用水一件」(史料編Ⅱ・四四六頁)である。これによると、上高根沢村が馬喰内の鶉野口用水落合堰を普請したところ、赤堀村の者が押し寄せてきて堰を打ち破ってしまった。上高根沢村の者二名を赤堀村役宅へ遣わし、打ち破った理由を問い糺したところ、「赤堀村へ何の連絡もなく普請したので、元通りにしたまでだが、川上より水が廻り次第赤堀村立合の上、堰普請を認める」という返答があった。この結末がどうなったのか、史料は見当らない。
 その他、数件の用水争論の史料があるが、出入りの経過などが不明なので省略する。いずれにしても用水をめぐる争論は、領主が異なる村と村との間では、幕府へ訴えて裁決を受ける方法もあるが、近隣の村の役人らが仲裁に入り、妥協点を見出して内済するのが、通常の解決法であった。

20図 江戸後期の太田村地内の用水(太田 見目清三家文書)