新堀用水の出入りは、安永五年(一七七六)三月の「馬喰内鶉野口用水一件」(史料編Ⅱ・四四六頁)である。これによると、上高根沢村が馬喰内の鶉野口用水落合堰を普請したところ、赤堀村の者が押し寄せてきて堰を打ち破ってしまった。上高根沢村の者二名を赤堀村役宅へ遣わし、打ち破った理由を問い糺したところ、「赤堀村へ何の連絡もなく普請したので、元通りにしたまでだが、川上より水が廻り次第赤堀村立合の上、堰普請を認める」という返答があった。この結末がどうなったのか、史料は見当らない。
その他、数件の用水争論の史料があるが、出入りの経過などが不明なので省略する。いずれにしても用水をめぐる争論は、領主が異なる村と村との間では、幕府へ訴えて裁決を受ける方法もあるが、近隣の村の役人らが仲裁に入り、妥協点を見出して内済するのが、通常の解決法であった。
20図 江戸後期の太田村地内の用水(太田 見目清三家文書)