近世を通して、農業生産は山林や野場から採取する草や木の葉で作る堆肥・厩肥・木灰などの自給肥料に依存していたから、これらを採取するための山林や原野は、農民にとって欠くことのできない土地であった。
これらの山林や原野のうち、共同して利用する土地を入会地といい、一村の農民のみが利用する村入会地と、数か村の農民で利用する村々入会地とがある。入会地の第一の目的は、堆肥にする草や牛馬の飼料となる秣を採取することであり、次いで屋根替え時に用いる萱や自家用の燃料にする薪などを採取することである。この他に家屋を建築したり、用水路や堰・橋梁を修理する際の用材の供給源としても利用された。
入会地は、農民や農村の間で取り交わされた約束によって守られていた。だが、幕藩体制が確立するにつれて、領主がとった小農民の自立政策に基づき、新田開発が進められると、入会地である平地林や原野は急激に減少し、牛馬の飼料となる芝草や堆肥・厩肥の原料採取にこと欠くようになった。農民の間では、入会地の利用権をめぐっての対立が生じるとともに、山林や原野の境界争いが、各地で数多く起こるようになってきたのである。
入会地の境界は、利用権をめぐる「出入り」(争い)を通して確定されていったが、それは数度にわたる出入りの結果としてのものであった。これまで比較的自由に利用されていた山林や原野に境界塚を築いたり、境木を定めたりして決着が図られていた。その例として、前高谷村と東高谷村の馬草場境界確定の証文(史料編Ⅱ・三八二頁)をみてみよう。