21図 馬草場証文之覚(花岡 鈴木 徳家文書)
天和三年(一六八三)十一月の「馬草場証文之覚」(史料編Ⅱ・三八二頁)では、境界を示す文書(21図)と議定文によってその境界を確定している。議定文の内容は、次の通りである。
一 西は中野沢、東は冷子川を境に定め、東高谷村と前高谷村の入会馬草場とする。
一 西は冷子川、東は立道を境に定め、東高谷村・前高谷村・平田太郎左衛門の入会野とする。平田太郎左衛門の入会地は三十一年以前に定めた通りである。
一 西は立道、東は井沼川を境にし、東高谷村の内野(村有地)に定める。
一 西は井沼川から東沢までは、東高谷村・平田太郎左衛門・土室村・前高谷村の入会野に定める。
この議定文は、仲裁人に石末村の新左衛門・藤右衛門、関俣村の源左衛門・五郎右衛門・弥兵衛、中岡本村の玉生勘右衛門の六名を立て、相互に取り交わされた。
この後、入会争論が起こった形跡はしばらく無いが、万延元年(一八六〇)九月になって、前高谷村が東高谷村を相手取り、秣場入会野について訴訟を起こしている(史料編Ⅱ・三八四頁)。同年七月二十三日、前高谷村の農民が秣刈りをしているところへ東高谷村の農民が出てきて、この秣場は東高谷村と飯室(土室)村の入会野であり、前高谷村の農民は立ち入らぬように申し入れてきたことが、発端である。前高谷村では、「天和三亥年に六人の仲裁人を立て、秣場の東西南北の間数を定め、境界を確定した折の証文通りにしてきたのに、いまさら無理難題を持ちかけられ、はなはだ困惑しており、秣刈りを止められては、田畑の養肥はもちろん、持馬の飼料にも差し支える」ので、是非なく役所へ訴え出たというのである。
この出入りは、翌年二月に、仲裁人四名で金一両を積み立て、毎年その利息の六匁を東高谷村が受け取り、入会野の境界についてはすべてこれまで(天和三年の議定)通りという条件が決められ、関係三か村で証文と絵図面を取り交わすことで解決した。仲裁人は、鴻野山村(現南那須町)名主重郎右衛門、芳志戸村(現芳賀町)の半左衛門、下高根沢村の庄兵衛、柿木沢村の重左衛門の四名である(平田 鈴木 順家文書)。
このように、明確に境界を確定し、絵図面を作成して議定書を取り交わしても、入会林野の不足は解消されたわけではない。いつ入会地の争論か起こるかわからない状態であったのである。
22図 馬草場境界確定図