23図 境界設定願書(花岡 岡本 右家文書)
寛永十五年(一六三八)十月に起こった野境争論(史料編Ⅱ・三七九頁)は、喜連川領の文挟村と宇都宮領の関俣村・狭間田村・柿木沢村の三か村との争いであったが、藩領違いの野境のため、幕府評定所の裁定によって境界に塚を築くことで解決したのである。
それから十八年後の明暦二年(一六五六)、関俣村は柿木沢村と秣場境界をめぐって出入りとなり、寺崎次太夫・岡本太郎右衛門の検分により解決したが(花岡 岡本昇次家文書)、四十七年後の元禄十六年(一七〇三)三月に再発した。柿木沢村の農民の鎌を関俣村の農民が取り上げたことから出入りとなったが、話し合いにならないので、柿木沢村が関俣村を相手取り、代官所へ訴え出たのである(花岡 岡本 右家文書)。この一件は、翌宝永元年(一七〇四)七月、検使役人の立会いによって次のように決着した。
一 野場の境界は、松平下総守様御代に決めた通りとすること。双方とも野場を起こし、田や畑にし、作付けをしたことは不届きである。
一 横堀から東野までは関俣村の野場とし、それより西野は柿木沢村の野場とすること。
一 今後のために、双方出会って境界に出会堀を掘り巡らし、土手を築き、卯木を植えておくこと。
一 松平下総守様代官矢野清左衛門様支配の時分、上竹橋向かいから他領境塚と中川との間に新堀を作り、伏久村へ水を引かせ、水銭を取っていたが、それを止めること。(花岡 岡本 右家文書)
双方とも、これらの条件を納得したことで、解決したのである。
嘉永五年(一八五二)二月には、寛永年中に裁許されている関俣村・柿木沢村両村の野場と伏久村の野場境界をめぐっての争いが起こっている(花岡・岡本 右家文書)。伏久村の農民らが境界塚を崩し、そこの木を伐倒したことによる。この一件は、葛城村(現喜連川町)名主平左衛門、喜連川宿本陣太右衛門、鍋掛宿(現黒磯市)本陣助之丞、伊王野村(現那須町)名主祐之丞、成田村(現矢板市)名主太左衛門の五名の仲裁人が入って解決した。その内容は、左の通りである。
一 楢木塚字将軍道角境塚より道を挟んで伏久村地内境塚を見通し、将軍道中央を三か村の地境に定める。
一 これまで伏久村分とみなしてきた雑木のある場所は、関俣村・柿木沢村両村の地内である。
一 板戸河岸から喜連川へ往来する巳午(南南東)の方へ見通し、冷(子)川沿い古堤を境に、高堀落合の所は、関俣村・前高谷村・伏久村三か村の境目とする。
一 前高谷村地内の境塚から寅卯(東北東)の方は、前高谷村・文挟村・伏久村三か村の境目とする。
一 伏久村の農民らが境界塚の木を伐倒したのは不届きであるから、関俣村・柿木沢村両村へ詫状一札を入れ、以後争い事を起こさないようにする。
右のような条件を確認の上、同年九月に伏久村・柿木沢村・関俣村の村役人連名の済口証文を、代官大草太郎左衛門手代友沢政蔵宛に差出し、この争論は決着したのである。