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宝積寺村と赤堀新田村の秣場出入

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 安永三年(一七七四)三月の「宝積寺村・赤堀新田村秣場境論出入帳」(宝積寺 加藤俊一家文書)によると、秣場境界の件で赤堀新田村が、宝積寺村を相手に訴訟を起こしたのは、次のような経緯からである。
 明和八年(一七七一)一月二十七日、宝積寺村の農民が大勢で赤堀新田村地内に押し入り、立木を切り倒し、枝木まで持ち去った上に、二月十二日には赤堀新田村の秣場へ押し入り、秣を刈り取り、立木を切り倒し持ち去っていった。赤堀新田村の農民たちは、その場へ出て止めさせようとしたが、相手があまりにも大勢なので、騒動になることを危惧し引き下がった。その後、宝積寺村の茂平と五郎右衛門が来村し、「我らが倒伐した立木の地所は宝積寺村地内であるが、これに不服があるならば本日中に水帳を持参し、現地において一筆ごとに確かめるがよい」と申し入れてきた。赤堀新田村側は、「領主が検地で決めた秣場境や村境を私に再改めすることは甚だ恐れ多いことであるから、それはできない」と返答し、使いの者に引き取ってもらった。困窮に悩まされていた赤堀新田村は小村であり、力づくではかなわない。そこで大谷村の兼帯名主八郎右衛門を頼み、穏やかに話し合いをもって解決したいと申し入れた。二度三度と申し入れたが、宝積寺村では聞き入れようともしないので、やむを得ず地頭方役所へ訴え出ることにしたのである。
 赤堀新田村が訴状を提出しようとした当日、またまた宝積寺村の農民百余人が赤堀新田村地内の馬喰久保に踏み込み、立木を散々切り倒すという事件を起こした。その後も数度にわたって立木を切り倒し、その数は四百余本にものぼった。宝積寺村農民のこうした行為に対し、赤堀新田村では現地には立ち入らず、ひたすら評定所の裁定を待つこととし、明和八年六月、佐倉藩堀田相模守領分赤堀新田村百姓代八左衛門・組頭久兵衛他二名の名をもって、宇都宮藩松平大和守領分宝積寺村を訴えたのである。
 間もなくして評定所から、次のような内容の通達が届いた。
 
   一 双方とも現地で立会い、場所を間違えないようにし、その際絵図と返答書を持参すること。
   一 八月二十五日に評定所へ出頭すること。
   一 双方、絵図と誓詞案文は石末村・赤堀新田村兼帯大谷村八郎右衛門・石末村組頭新助・赤堀新田村組頭久兵衛・同村百姓代八右衛門に渡すこと。
 
 役掛りは、江戸見分役会田伊右衛門手代の関口太源次、同役宮村孫左衛門手代の山本恵助、宇都宮代官掛りの谷川平太夫・高本弥右衛門・奥村三太夫が当たることになった。
 翌明和九年(一七七二)二月二十日に那須郡から現地入りするという役掛り一同は、石末村問屋源左衛門宅に一泊、次いで赤堀新田村に四月五日まで、宝積寺村では宝蔵寺に七月五日まで逗留し、同日より赤堀新田村与右衛門宅に宿泊することになった。
 吟味に対し、赤堀新田村は、馬喰久保および二子塚に同村の新畑があり、その畑内は同村の秣場であったと主張している。一方、宝積寺村は、同村の秣場の中に赤堀新田村の飛地畑はあるが、畑の周囲にある立木によって木陰になるという理由で切り倒したと説明している。吟味の結果結論が出ないので、代官遠藤兵右衛門・江川太郎左衛門両手代の者が再調査して、次のような結論を下している。
 
   赤堀新田村は、馬喰久保に下々畑二十五筆、反別二町七反二畝十八歩、馬頭街道際二子塚に下々畑十二歩、上ノ原に下々畑八筆、反別四反二畝十八歩あるが、訴状の内容にある畑地内がすべて赤堀新田村の秣場であるという証拠はない。同地内には宝積寺村の下々畑十六筆、反別一町一反五畝二十四歩もあるので、秣場はいずれのものとも断定しがたい。また、訴状に記載されている「二子塚」という地所は「二ツ塚」と呼称されている土地であり、「上ノ原」は「鷺谷台」と呼ばれている地所で、いずれも宝積寺村の秣場で、これまでも年々木陰伐りをしていた土地である。しかし、「縄帳」をもって一筆ごとに突き合わせてみると、双方の言い分に矛盾があり、反別にも相違があることが判明したので信用しがたい。よって、赤堀新田村・柳林村両村の境から申の二分五厘へ見通し、馬喰久保長二郎持畑境より西へ五十間、それより南同所六右衛門畑ぎわへ百五十間見通し、西南板戸村境まで、馬喰久保畑より内側は赤堀新田村の秣場とする。その外側を宝積寺村の秣場とする。なお、宝積寺村農民らが切り倒した立木はすべて赤堀新田村へ引き渡す(宝積寺 加藤俊一家文書)。
 
 こうして、三年三か月もの歳月をかけた争論は、安永三年四月二十五日にようやく解決したのである。この一件にかかったすべての諸経費は、すべて村の負担となる(宝積寺 加藤俊一家文書)。これを表示したものが、4表である。七か月間だけで三百三十八貫百二文もの経費がかかっており、一戸当たりの負担金額は二百九十一文となる。この他に白米四斗三升・薪百七十八駄が計上されている。原告側の赤堀新田村の農民も同額程度の経費を負担したであろうことは、想像にかたくない。経費がいくらかかろうとも、入会秣場の出入は農民にとって死活問題でもあったので、捨て置くわけにはいかなかったのである。
 
4表 秣場出入惣遣高(明和9年9月)
勘定月日金  額備 考
3月18日勘定63貫518文惣遣高
4月29日勘定45貫231文惣遣高
6月12日勘定122貫951文惣遣高
7月 6日勘定54貫703文惣遣高
9月 6日勘定29貫703文
小  計316貫106文
米・薪代21貫996文
惣 勘 定338貫102文

出典:宝積寺 加藤俊一家、明和9年9月「秣場出入諸入用勘定帳」