24図 山崎半蔵の墓(飯室地内)
元和八年(一六二二)、十一万石の宇都宮城主となった奥平美作守忠昌は、城下町の改修と整備にとりかかるとともに新田開発を実施した。この政策を指導した中心人物が、山崎左近である。同人は、「宇都宮城下町の整備・改修と市場を新設して商業経済都市化を図る一方、新田の開発を促進して財政備蓄に手腕を発揮し、家老職でも首位を占め」(『氏家町史 上巻』三三九頁)て、奥平家の最盛期を築きあげた人物だが、実子がいなかったため、同族から養子を迎え、知行地を分割継承させて分家としたという。その山崎家の分家の一人が、「市之堀用水」開削の指導者とされる山崎半蔵勝長である。同人は、土室村(飯室)を知行地としており、率先して同所の新田開発に努めるに至った。
宇都宮藩領の土室村・柏崎村・桑窪村は、自然湧水池である「おつぼね沼」を水源とする井沼川の流水を、農業用水として利用していた。だが、自然湧水や谷間の溜池の利用だけでは、用水不足となってしまう。そこで、桑窪村の地頭である奥平織部と、土室村の地頭である山崎半蔵は、新田開発を進める上で必要な農業用水の確保策を考えなければならなかったのである。以下『氏家町史』上巻などにより、経過をたどってみよう。
検討に検討を重ねた結果、水量豊かな鬼怒川の水を押上村(現氏家町)から取水し、上野原台地を貫き、狭間田村・伏久村・文挟村・土室村を通り、桑窪村に達する五里余の用水路を開削する計画が立てられ、そのための実地調査が行われた。しかし、開削予定地には微高地や湿地があったりするため、かなりの難工事となることが予測された。
困難を極めた調査の結果、押上村を取水口とする鬼怒川からの送水が可能であることが判明した。そこで鬼怒川下流の氏家村・馬場村(現氏家町)の了解を得るとともに、用水路通過の狭間田村・松山村などと取入口を設置する押上村の協力も得て、宇都宮藩に用水堀新設願を提出した。藩も「財政増強を計画中であったので許可し、藩事業とすることに決定」(『氏家町史』上巻三四〇頁)し、幕府に公式の許可の願書を提出したのである。