土室村の北に位置する文挟村と伏久村は、喜連川領である。市の堀用水路は、この二か村を通過して桑窪村へ送水するルートを想定して計画された。この計画を成功させるためには、是が非でも喜連川藩の協力を得なければならない。しかし、喜連川藩は、
一、他領の用水路開削工事について、当藩は全く関係ない。
一、領内で開削工事を行うには、幕府の許可が必要である。
一、領民の住居が水路の予定地になっていることはもってのほかのことである。
という意向を示し、用水通過拒否の態度を通告してきた。
宇都宮藩としては、何としてもこの事業を成功させねばならない。発案者の奥平織部・山崎半蔵を中心に、奥平家重臣の奥平図書、郡奉行奥平忠左衛門・斎藤又左衛門らが総力を結集し、領内農民を動員して用水路開削と、その完成の決意をみなぎらせていた。その間、宇都宮藩の重臣らは、用水堀の重要性を説き、堅い決意をもって喜連川藩との交渉に当たっていた。喜連川藩もその熱意を汲み取り、両藩の役人立会いのもとで、用水路通過の条件を提示し、和解するに至った。この時決められた条件は、次の通りである。
一、両村(伏久村・文挟村)内を通過する用水堀の工事は、当藩の両村人足で掘削すること。
一、用水堀完成後は、永久に潅漑水利権が確保されること。たとえ水不足の場合でも用水は使い放題であること。
一、両村内の用水堀の維持と運営は、両村の自主管理に委ねる。もし両村内の水路が大普請の必要を生じても、一切他領・他村の援助は受けないこと。
一、両村は、村内を通過する用水堀をこのように自主管理しているので、他領の用水堀運営には全く関知しない。たとえ取入口や水路の大普請がある場合でも、両村は人足及び諸経費など一切差し出さない。
一方的な内容の条件を突き付けられ、宇都宮藩としては不服であったが、条件のすべてを承知して、この難題を解決した。この結果、喜連川領内の伏久村・文挟村を通過する用水堀開削計画が実現可能となったのである。