喜連川藩領内を通過する用水問題も解決し、開削工事は開始された。しかし、工事の着工年月日に関する公式記録はない。『氏家町史』では、正保三年(一六四六)に開削工事が着工されたと推定している(『氏家町史』上巻三四二~三頁)。
奥平織部・山崎半蔵が中心になって進められた大工事は、十年の歳月をかけ、明暦二年(一六五六)春に完成した。とうとうと流れ行く用水路の水面を見つめる半蔵は、感無量であったろう。しかし、十年もかかった難工事に精も根も尽き果てた半蔵は、市の堀用水完成から半年後の同年九月に急逝した。このことは、延享五年(一七四八)二月の「覚」にも記されている。それを引用してみよう。
市の堀は山崎半蔵様が計画し完成したものであるが、その年(明暦二年)九月に逝去され、土室村に石仏が建立してある。
山崎半蔵様はご養子で、養父は山崎左近様と申す方である。
飯室の小高い墓地に眠っている同人の墓碑は、「明暦二丙申歳九月二十二日、慈誠宗酔居士」と刻まれているが、風化が甚だしく、苔むして建っている。