市の堀用水路開削の大事業を成し遂げた人物は、山崎半蔵勝長であるというのが定説になっている。しかし、同人についてのまとまった記録が残されていないため、その人となりを知ることは困難である。わずかに「覚書」や「差上文書」などの記載から、その人物像の一端をうかがうことができる。
延享五年(一七四八)二月の「覚」の中には、山崎半蔵と市の堀用水のつながりが次のように記されている(『氏家町史』上巻三四三頁)。
明暦二丙申年に市の堀を掘ったのは、宇都宮奥平美作守様の御代の御家中、山崎半蔵殿と申す人で、土室村を知行していた時、渇水になったので、半蔵殿が企画して用水を掘らせたものである(後略)。
これを見る限り、半蔵は、自分の知行所の渇水を解決するために用水を開削したと解せる。それに対し、宇都宮藩側では、渇水に悩む領民の願いを聞き入れて用水を開削したという立場を表明していた。元禄九年(一六九六)の「乍恐以口上書御届申上候御事」によると、
五十一年前の戌の年(正保三年)、市の堀用水開削を八か村(押上村・上松山村・下松山村・狭間田村・狭間田新田村・土室村・柏崎村・桑久保村)で公儀へお願いしたが、許可されなかった。そこで、桑久保村の地頭奥平織部様・土室村の地頭山崎半蔵様が先頭に立って用水開削に当たった。四十一年前の申の年(明暦二年)の春、奥平図書様・郡奉行奥平忠左衛門様・斎藤又左衛門様が、押上村から桑久保村まで堀通を見分され、村々からの願いの通り許可され、用水路を掘ることになった。
とあるように、奥平家臣団は、明暦二年に検討し、市の堀用水を掘削し、完成させたというのである。
山崎半蔵の名は、用水出入が起こるたびに引き合いに出されていたが、年月の経過とともにその経歴は不明となってしまった。半蔵の知行地であった土室村の名主伊左衛門の母は、その由緒が忘れられることを恐れ、知人の村役人に半蔵の経歴を知りたいと嘆願したところ、蒲須坂村・長久保村(ともに現氏家町)両村の名主が郡奉行に相談している。そのことを記したものが、寛延四年(一七五一)二月の「口上書」である。
先の御代様の時代に、市の堀について出入があった時、山崎半蔵様の役職を尋ねられたが、年が経っているのでわかりかねると申し上げたところ、郡奉行の森治郎右衛門様は、「私が江戸へ行った時、奥平家に山崎の役職名を確かめ、それを伊左衛門に渡してやる」と言ったということであった(『氏家町史』上巻三四四頁)。
だが、この件に対する返答はなかったようである。
市の堀用水開削の発案者の一人であった山崎半蔵のことについては、このように不詳な点が多く、同人の知行地であった飯室にも史料は見当らないのである。