25図 市の堀用水組合の村々
市の堀用水の完成とともに、用水の管理運営を円滑に進めていくために、水組八か村を結成し、用水の配分などを均等にするための努力がなされた。しかし、新田への取水分水と、用水路が通過する文挟村・伏久村両村の一方的な用水利用の条件という難題が、常に村々を悩ませていた。
享和三年(一八〇三)三月の「一ノ堀用水一件」によると、このたび用水一ノ堀(市の堀)川口の大破の普請には、塩谷郡上柏崎の村方の力では不可能なので、郡中人足を願ったところ、一橋領芳賀郡村々五か村に人足の割付けがあり、遠方の村々なので免除を願い出たが却下されてしまった。そこで五か村と上柏崎村で相談し.割付け人足の七割は芳賀郡五か村で勤め、残り三割は普請人足昼扶持米を支給される範囲で上柏崎村へ雇人足を頼むことで話し合いがついたという(史料編Ⅱ・四一一頁)。この文書は、一橋領上柏崎村が勤めなければならない普請人足を、幕府の指示で同領芳賀郡五か村が分担したことを示している。
同年同月の「差出申一札之事」は、上柏崎村で一ノ堀用水口押上大破に付、塩谷郡村々へ助人足の差出しを願って割付けられたが、宇都宮藩から普請の立会・検分がなければ、村々では助人足を出し兼ねるという。いずれにしても今回は助人足を出してくれれば、今後一ノ堀用水口大破の時は、上柏崎村より宇都宮藩の立会・検分と助人足を願い出ることにする。もし上柏崎村一村の願いでは採用されない場合は、上柏崎村が費用を出して村々一同の訴願を行うよう定めるというのである(史料編Ⅱ・四一二頁)。
また、一橋領の上柏崎村と桑窪村二村が、喜連川領の文挟村と伏久村に対し、過分に取水しないよう申し入れたところ争論となり、文化四年(一八〇七)三月の「熟談済口証文之事」をもって争論を解決している。事の顚末は、次のようである。
市の堀の用水が年々不足し、流末の村々では荒地が多くなったため、一橋領の二か村(上柏崎村・桑窪村)と宇都宮領の十一か村は、分水口に定杭を建て、古例に基づいた人足高の割合に応じて分水し、流末の桑窪村まで行き渡るようにしようという相談がまとまった。しかし、喜連川領の文挟村と伏久村は水不足のため、定杭取り決めの話し合いがまとまらず、争論となった。そこで、土室村役人の藤右衛門と正蔵が仲裁に入り、渇水の時は十五か村で話し合い、取水を均等にするように決定した。なお、文挟村と伏久村は、田反別に応じた取水をするようにする(史料編Ⅱ・四〇〇頁)。
文化十三年(一八一六)八月、諸国で大風雨による大洪水が発生し、莫大な被害を生じた。市の堀用水も例外ではなく。大破している。その修理のための普請は翌十四年四月に行われることになり、人足の割当てが三十か村に課されている。その時の人足及び諸入用品は、次の通りである。ただし( )内の数字は上柏崎村の負担分である。
人足 八千二百九十人八分(七百四十五人)
竹 五千九百九本 (五百三十二本)
片竹 五十四本 (四本)
棚木 百六十二本 (十四本)
貫木他 三百九十八本 (三十五本)
枠木 三本
成木 三十本
抹タ 千四百八十四束 (百三十三束)
莚 四百七十四枚 (四十二枚) (史料編Ⅱ・四一三~四一七頁)
普請に要する人足の扶持米は、一日一人当たり五合として四十一石四斗五升四合(三石七斗二升五合)であり、普請終了までに二百八石五斗八升八合五勺を要している。また、上柏崎村は「市之堀用水路御普請出来形帳」の中で、「用水堀小破の時は、自普請にする」(史料編Ⅱ・四一三~四一七頁)と書き記し、暗に他村へ人足を命じないでほしいということを示している。それだけ、用水路普請における人足や諸経費の負担か大きかったということである。
このように用水路における人足と諸経費の負担は、市の堀用水の管理運営上、最も難題となっていた。しかし、それにもまして村々を悩ませたことが、分水の件であった。用水の不足による争いが生じやすかったのである。
文政九年(一八二六)五月の「市之堀用水分水控帳」(史料編Ⅱ・四〇一~四〇六頁)は、上柏崎村の見廻人太左衛門が、各堰口から取水する定杭について書き留めたものである。この中に取水口の幅と水丈が書き留められている村は、叺坂(蒲須坂)新田・長久保新田・箱森新田・上松山新田・下松山新田・狭間田新田・谷中新田・根本新田(以上現氏家町)・伏久村・土室村・上柏崎村・押上村(現氏家町)・狭間田村の十三か村である。
だが、天保二年(一八三一)二月の「取替申儀定之事」(史料編Ⅱ・四一七頁)には、市の堀用水組合水組十五か村のうち、毎年の干水により荒地が増加した土室村で、文挟村内の井沼川から取水するための新堀を造ることになったが、そのための普請は組合村々の助力を頼むことになり、土室村は当年の普請だけは免除されるという条件が付されたが、大口普請がある時は人足や竹木・諸入用はこれまで通り負担することに決定したということが記されている。用水不足による荒地の増加が、新堀開削をもたらしたケースである。
嘉永六年(一八五三)四月の「為取替済口証文之事」(史料編Ⅱ・四〇八頁)には、渇水に悩む上柏崎村が大黒堀から分水し、その上井沼川に新堀を造ることになったが、それにより赤渕用水が不足となるため流末の村々と争論となるところを、平田村・亀梨村・前高谷村の村役人が仲裁して解決した経緯が記されている。同年五月の「済口議定証文之事」(史料編Ⅱ・四〇七頁)は、市の堀用水から取水していた土室村が、毎年の用水不足のため文挟村内の井沼川から取水することになったが、このことをめぐり平田村と争論になるところを、鴻野山村(現南那須町)と大谷村の名主が仲裁に入り、解決したというものである。また、安政二年(一八五五)三月の「議定差出一札之事」(史料編Ⅱ・四〇九頁)にも、用水不足のため田地の仕付けに毎年難渋している上柏崎村が、飯室村と平田村に相談し、平田村用水から飯室村を通す新堀を開削して取水することになった旨が記されている。
このように、用水不足による新堀開削をめぐって、村々は話し合いを重ね、問題の解決を図ってきたのである。