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桑窪村の離反

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 市の堀用水完成から四十年後の元禄九年(一六九六)、市の堀開削を提案し、その工事を推進してきた奥平織部の知行所である桑窪村が、水組から離反しようとした。市の堀水組合八か村には規定通り村高に応じた人足割当かあり、桑窪村は十三人の割当を出していたが、元禄九年からは人足はもちろん普請用の材料や諸経費を一切出さないと、桑窪村が水組合の村に申し入れてきたことが発端である。
 この通告に驚愕した各村の名主や用水役人は、桑窪村に対し、これまでの規定通り人足・諸経費を負担するように幾度となく申し入れたが、聞き入れてもらえなかった。そこでやむを得ず代官所へ訴えることにしたのである。同年二月二十一日付の「乍恐以口上書を御届ヶ申上候御事」(『氏家町史』上巻三四八頁)は、寛文十年(一六七〇)の桑窪村における新田開発の際、同村は、用水不足のため柏崎村内の市の堀の落水である井沼川からの引水を許してもらえれば新田開発は可能と主張して、新堀を開削した結果、今では村高五百石余りになったが、その桑窪村が普請時の人足を出さず水を利用するだけというのはわがままなので、例年の通り人足を出すように命じてほしいという訴状である。
 もともと桑窪村は、毎年水不足に悩まされ、田植えが遅れがちであった。その上、普請ともなると、人足は最も遠距離を往復しなければならなかったため、用水の恩恵が受けられないとしてこのような脱退表明をするに至ったのである。だが、結局、桑窪村は従前通り人足の差出しに応じていったのだった。
 延享五年(一七四八)、市の堀用水取水口堰に砂礫が堆積して取水量が減少し、下流村の用水不足は深刻なものとなった。そこで宇都宮藩は河内郡・塩谷郡各村々へ人足の割当を行い、市の堀用水取水口の改修工事をすることにしたのである。この改修工事は、多額の費用と多くの人足を必要とするものであり、かつ春までに完了させ、田植えに間に合わせなければならないものであった。改修工事現場で采配をふるうのが年番の村であるが、この年の年番村は前年の延享四年(一七四七)に宇都宮藩領から一橋領になった桑窪村であったため、問題が再燃することになった。
 市の堀用水組合十三か村に、堰元の押上村から、市の堀用水取水口改修のための参会と改修現場の検討という重要な会議を開催するという廻状が発せられ、正月十六日にその会議は開かれたが、桑窪村役人は出席しなかった。当惑した用水組合村では、狭間田新田村と蒲須坂新田村の惣代を桑窪村へ派遣したところ、村役が他出のため話し合いにならず、明日中に押上村へ連絡をくれるように申し入れると、桑窪村側では十九日まで待ってくれというので、待って何の連絡もない場合は領主へ申し上げると言いおいて帰村したが、いまだに音沙汰がない。しかも、柏崎村も十六日の会合に不参加なので、問い合せると、他領になったので会合には出席しないが、普請人足だけは出すということであった。そこで、水組合村である押上村・長窪(久保)新田村・蒲須坂新田村・箱森新田村・上松山村・下松山村・狭間田新田村・谷中新田村・根本新田村・狭間田村・土室村の十一か村庄屋は連名で、代官所へこの経緯をまとめ、提出した。正月二十三日のことである。
 用水組合村は、組合年番役を拒絶、普請人足の割当にも応じない桑窪村の態度に、春まで完了させねばならない工事計画を進められず、困惑した。幾度となく藩庁に解決策を求めたが、一橋領の村が相手なので、藩庁からは明確な回答がなされなかった。組合村々は十一か村連名で、江戸の一橋役所へ嘆願書を提出するために、押上村庄屋後見の久右衛門と長久保新田村庄屋織右衛門の二名を上京させた。同年四月のことである。この時提出された「乍恐書付を以奉願上候」(『氏家町史』上巻三五一頁)は、「桑窪村は以前は人足と諸経費を負担していたが、今後は水代だけ支払い、用水路普請の人足や諸経費は出さないことに決めたと通知してきた」ことに対し、「それでは市の堀用水組十一か村が難儀するので、従前同様、桑窪村も普請人足及び諸経費を負担するよう仰せ付けてほしい」というものである。
 一方の桑窪村でも江戸表へ村役人を送り、自村の主張を訴えている。また、同村は、「市の堀用水は村一円に行き届かないので、新堀を造りその用水で耕作している」ことを理由に「普請時の人足だけは出すが、その他の諸経費及び資材については出さないこととした」という内容の「差上申一札之事」を、名主・組頭連名で、用水組合村へ申し入れている。両者の主張は、平行線をたどるのみであった。
 しかし、用水路の大普請は、春までに完了せねばならない。作物の仕付けに間に合わせなければならなかったからだが、加えて鬼怒川の渇水期と降雨量の少ないこの時期でなければ工事ができなかったのである。延享五年二月には、堰元村付近に続々と竹・杭などの資材が集められ、人足も集まってきた。宇都宮藩は、市の堀用水組合十三か村だけの人足では普請完了はおぼつかないと考え、河内郡・塩谷郡内の計六十一か村からも人足と資材を動員した。同年三月の「市野堀御郡中差当銘々帳」(『氏家町史』上巻三五四頁)によると、河内・塩谷両郡からは四千人、市の堀用水組合十三か村からは三千人、合わせて七千人の人足が動員され、竹六千七百二十本、杭木八百八十本、古莚四百枚を使用して、この大普請は完了したのである。
 しかし、他領となったことを理由に人足を出さない桑窪村の問題は、依然として解決しないままであった。このまま訴訟もせず、用水の管理運営を続けていけば、これまでの規則は破られ、下流域の村々が不満を募らせることになる。事態を放置しておけない用水組合十二か村は、同年四月二十四日付で、宇都宮普請奉行所の西村源治左衛門・粂原嘉右衛門宛に願書を提出した(『氏家町史』上巻三五五頁)。その内容は次の通りである。
 
   一、古来市の堀用水組合村のうち、柏崎村は例年の通り人足を出していたが、奉行様の賄代や竹木などは、江戸表領主様に伺いを立てた上で差し出すという証文を受け取っている。
   一、この度桑窪村は市の堀用水組合を離脱し、普請割当人足も差し出さないというのでは、これまでの規則を破ることになる。このことを宇都宮役所へ訴えたところ吟味するとのことだったので、市の堀用水路普請に取りかかったが、桑窪村一村のわがままを許しておいては他村に悪影響を及ぼすので、御裁断あり次第連判証文の中へ桑窪村を書き加え、また別紙証文を作成し、今後このようなことがないようにする。
 
 このように古法を遵守し、市の堀用水を維持しようとする用水組合村の努力も空しく、この問題は今後も尾を引いていくことになるのである。