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文久三年の水争い

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26図 「市の堀」分水と番水(『氏家町史 上巻』)より

 文久三年(一八六三)五月の「差出シ申書付之事」(『氏家町史』上巻三五八頁)には、
 
   鬼怒川が稀なる渇水で、市の堀用水組の村々は難渋している。特に流末の村々は全く水がなく、そのために仕付けはもちろん苗代水にも事欠く有様である。氏家組合・阿久津組合も同様である。しかし、市の堀取水口には水があるはずなので堰を下げて下流へ分水してくれるよう、藩庁へ願い出、役人の検分を受けた上で、市の堀用水組合村々へ掛け合ったが、組合村側は取水口は先年から鬼怒川総締切と決議してあるから堰を下げることは出来ないと、出役の役人に申し上げたところ、出役の宿所である氏家宿に呼び出され、説得された結果、組合村は草川への一割の分水を認めることにした。
 
という経緯が記されている。
 早速、各村の水役人代表が分水点に参集し、水位基準杭を打ち込み、さらに、次のように十五か村の間で「水配り仮議定書」を決定している(『氏家町史』上巻三六〇頁)。
 
   水元の押上村とその外三か村(長久保新田村・蒲須坂新田村・箱森新田村)は明六ツ時(朝の六時頃)から夕七ツ時(夕方四時頃)までの昼間に用水を使い、松山新田村から下流の九か村(上松山村・下松山村・狭間田新田村・狭間田村・谷中新田村・根本新田村・土室村・柏崎村・桑窪村)は、夕七ツ時から翌朝六ツ時まで用水を使うこと。そのため相互に水番の者を出して、不正のないようにすること。但し、水不足であるから、流末の村々の古田の田植えが完了するまで水上の村々の新田に配水してはならない。田植えが終了した後の水不足については、用水組合一同の相談で、用水配分を決めるから、この議定を互いに守ること。
 
 これを図示したものが。26図である。
 文久三年の鬼怒川渇水による水不足の危機は、分水法と番水制をもって脱することができた。しかし、慶応二年(一八六六)には、諸国で大雨が続き、凶作となった。鬼怒川も大洪水となり、取水口の堰は見るかげもなく押し流されてしまった。