慶応二年は、田植えの時期から降雨が続き、八月には暴風雨となり、諸国の河川は大洪水を起こし、凶作となった。鬼怒川も堤防を寸断し、河床を砂礫で埋め、市の堀用水の取水口を破壊して本流の流れさえ変えてしまう大洪水を起こした。この被害を来春の田植えまでに復旧し、用水を確保することが、市の堀組合村々にとって最重要課題となった。
堰元村の押上村が中心となって、用水組合村の結束と工事着工についての相談が行われた。その結果、復旧工事の見積書を宇都宮藩代官所へ提出し、藩の助成を願い出ている。慶応三年正月に出された「乍恐以書付奉願上候」(『氏家町史』上巻三六一頁)には、
大洪水により鬼怒川の流れが変わった結果、今までの取水口よりおよそ十丁ばかり西の方へ移り、そこから取水する工事に、人足一万二千六十九人、諸入用杭千百五十一本・長秣千五百二十八束・小秣千三十束・莚七百四十六枚、戸羽〆木千七百六十本・枠木七百八十三本・間瀬木九百七本・籠竹四千三百六十二本が必要であることが記され、それを十二か村で高割りにしても半々の割にしても、「村々の自力では出来かねる」ため、村々で半分の人足を出し、残りの人足を買い人足で補うとすれば、「その賃金は千五百八十貫五百文、金にして二百十五両と銭三貫五百文、その他諸入用資材の木・竹を購入すると二十七両一分が必要」となり、「この半分を自普請で賄うにしても、残り半分の百二十一両二朱と銭一貫七百五十文を藩から出してほしい」という、願書を出すに至った経緯が詳細な計算とともに述べられている。
これに対し、藩の役人が出張してきて、その被害の甚大さに驚き、救助金を藩から直ちに支給するからすみやかに復旧工事を着工するように命じて帰藩した。しかし、藩からの救助金は三十両にすぎなかった。用水組合は、救助金増額をたびたび嘆願したが、藩役人は善処するというだけで、見積り通りの救助金の支給はなかった。
また、この大普請は組合村の一致団結がなければ成し遂げられないものであったが、喜連川領の伏久村・文挟村は「一切他村には人足・資材は出さない」という旧習をたてに、普請への助力を拒み通した。そこで残りの市の堀用水組合十三か村は、この大普請をやり遂げることの誓約と、そのための人足と資材を規定通り提供し合うことの協定を作成した(『氏家町史』上巻三六三頁)。この大普請は、苗代の仕付け直前に完成を見たが、農村を疲弊させ、藩政へ不信感を抱かせ、用水組合村々の結束に亀裂を生じさせることになった。