1図 近世初期の交通図
奥州街道の整備が始まったばかりの近世初頭、高根沢周辺の幹線道路網を示す史料はそれほど多くはない。慶安元年(一六四八)の『下野一国』(東西文献刊行)と、明暦四年(一六五八)の「関街道ほか道筋略図」(史料編Ⅱ・口絵、五四六頁)は、この当時のもっとも確実で唯一ともいえる史料である。これによると、近世初頭の高根沢の幹線道路は次頁の図のようになる。
『下野一国』は、幕府大目付の井上筑後守に提出した街道道筋、舟河道、居城・古城を書き上げた報告書である。街道については大道・中道・細道に区分し、上り・下りの坂道の所在、橋や渡し船による渡河方法。集落の長さ、一里山の位置等が記されている。特に距離の記載は詳細である。
高根沢周辺の道筋は、古河から奥州白坂への大道筋として、白沢町から鬼怒川は徒歩と船で渡り上阿久津村にでて、氏家町から松山新田を経て喜連川町へと通ずる奥州街道のほかに、喜連川町から下館への中道筋として、喜連川町・(上)柏崎村・稲毛田への道、真岡町から奥州籏村への中道筋として、稲毛田・給部・森田・烏山への道、宇都宮町から常陸への中道筋として、道場宿・大塚村・森田への道が書き上げられている。
「関街道ほか道筋略図」は、宛名に幕府老中、勘定奉行等が記載されているので、荷街道として盛んであった関街道に係わる幕府評定所への訴訟文書の一部と思われる。高根沢周辺の道筋としては、阿久津・氏家・喜連川へと続く「大街道(奥州街道)」のほかに、板戸河岸から奥州への道として、板戸・石末原・高野山(鴻野山)・鹿子畑への道、板戸・関俣・かつらき(葛城)・鹿子畑への道、の二筋の「関街道」が図示されている。