それ以外の街道では、統制も一般に緩やかであった。これら一般の街道は、奥州街道の補完的な役割を果たすと共に、奥州各藩の産米、各地の産物、商人荷物などか盛んに搬送されていた。なかでも「荷街道」とも呼ばれた関街道は、奥州街道の整備以前にあっては、江戸と奥州を結ぶ最大の動脈路であった。特に、江戸への廻米路として、近世初頭から隆盛を誇っていた。
関街道は、鬼怒川板戸河岸から高根沢を貫いて奥州白河へと南北に続く道である。奥州白河の関への道から、「関道」あるいは「関街道」という呼び名が生まれたともいわれている。奥州街道の東側を平行して走る脇街道の役目を果していたが、その道筋は明確に定められていた訳ではない。先の明暦四年(一六五八)の「関街道ほか道筋略図」には、すでに二筋の関街道が図示されてる。また関街道では、奥州各藩の城米をはじめ、その後も各地の商品生産の活発化に伴い、新たな脇道が次々と網の目のように開かれ、荷物の取りあいを巡る街道と問屋の紛争が繰り返されることになる。
荷街道としての関街道が盛んになると、奥州街道と競合することも生じてきた。元禄八年(一六九五)、奥州街道と関街道の宿々の間で、白河藩廻米輸送を巡る紛争が起こった(『栃木県史』史料編近世四・六一七頁)。紛争の発端は、白河藩が白河の南方の籏宿で上り荷物を差し止めてしまったことにあった。板戸河岸・石末村・鴻野山村・鹿子畑村以下の関街道の十一宿は、関街道は本街道(奥州街道)、原方道とならぶ古来からの奥州と江戸を結ぶ街道として諸荷物の輸送をしてきたと訴え、白河藩米の輸送公認を求めたのであった。関街道は、順路が便利で駄賃銭も安く、商人の望むところであると主張し、また諸大名の通行の時には、関街道筋からも助人馬を出している、また奥州街道鍋掛宿が洪水の時などは関街道を経由して輸送もしている、等々と従来からの実績を幕府評定所まで訴えたのであった。これに対し奥州街道の宿側は、正規の街道である奥州街道こそがすべての荷物を輸送してきたと主張し、奥州米がいつとなく脇道(関街道)にて輸送されるようになり「御伝馬宿荷物不足にて、困窮にまかりなる」状況であると訴え反論したのであった。
この争論の結果は記録がなく不明であるが、荷街道としての近世初期の関街道が、公用通行路としての奥州街道の廻米や商人荷物の輸送機能、地位を脅かすほどになっていたことを示している。
2図 文挾と飯室境にある道しるべ(南那須町鴻野山地内)
3図 関街道にある道標(氏家町 鍛治ケ沢地内)
4図 関街道の主な道筋と宿(部分)(喜連川町 佐野正司家文書)